ご当地グルメ「甲子園ヒーロー揚げ」を販売する兵庫県西宮市の飲食店主ら4人が、能登半島地震の被災地で炊き出しをした。生みの親の山崎哲(あきら)さん(55)が呼びかけ、名物を避難所で提供した。「自己満足じゃないのか」との思いもよぎったが、それでも山崎さんを動かしたのは、阪神・淡路大震災の記憶だった。(地道優樹)
2月19日、山崎さんは倒壊した家々が残る石川県珠洲市内を車で走っていた。住民が身を寄せる蛸島小学校にヒーロー揚げを届けるためだ。珠洲市では103人が亡くなり、2400戸以上の住宅が全壊。半壊も2千戸近くに上った。撤去が追い付かず、山積みになったがれきを見て、29年前を思い出していた。
1995年1月17日、神戸市東灘区の自宅で激しい揺れに襲われた。幸い家族は無事だったが、4階建てマンションは全壊。部屋を出ると、目の前で阪神高速道路が横倒しになっていた。
当時25歳。陸上自衛隊を退職後、料理店で修業し、西宮市内に焼き鳥店を開いたばかりだった。震災直後は親族が住む神戸市長田区に向かい、生き埋めになった人たちの救助を手伝った。その後も店は再開できず、代わりに各地で炊き出しをし、バイクで避難所に救援物資を届けて回る日々を送った。
ボランティア活動は4カ月ほど続けた。焼き鳥店の開業で約2千万円の借金を抱えていたが、「人の役に立てている」という実感が将来への不安を消してくれた。ようやく日常を戻り戻した時、「なぜか心に穴が開いたような、取り残されたような感覚になった」
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今年の元日。能登の被害映像を見た瞬間に「行こう」と思った。コロナ禍による経営悪化が長引き、心を病みかけていた。「能登に行けば何かが変わるかもしれない」。奔走した阪神・淡路の記憶がよみがえった。
しかし地震直後、石川県が個人のボランティアを自粛するよう呼びかけていた。山崎さんも自問を重ねたが「いても立ってもいられなかった」。人づてに珠洲市の市議を紹介してもらい、食材の準備から撤去まで「自己完結する」という条件で「炊き出しをしたい」と相談。避難所に寄せられる救援物資はおにぎりやカップ麺などが多いといい、「肉はありがたい」と歓迎された。
7時間かけてたどり着き、約1300個のヒーロー揚げを調理した。生活の場に立ち入らないようスタッフに配ってもらったから、味の感想は聞いていない。住民と話す機会もあったが、「頑張ってください」とは言えなかった。やることは山積みだけど気持ちが追いつかない。あの頃の自分と重なった。
「遠いのにありがとうね」。自宅が断水し、学校までシャワーを浴びに来ていた高齢男性から声をかけられた。「甲子園行きたいなあ」
石川県では現在も4500人以上が避難所暮らしを余儀なくされている。炊き出しの後、「やはり1回限りの支援ではどうにもならない」と痛感した。次は6月ごろにも現地入りを考えているという。
【甲子園ヒーロー揚げ】二つに割って食べられる▽サクサクの衣▽にんにくダレ-の3カ条からなる手羽の唐揚げ。中国語で鶏肉を意味する「ジーロウ」が名前の由来で、甲子園を中心に市内の13飲食店が販売する。店主らでつくる「西宮・甲子園ヒーロー揚げ推進委員会」が普及を目指している。
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