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Wednesday, March 9, 2022

被災者の連作画公開 江東で 東京大空襲77年 - 読売新聞オンライン

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 太平洋戦争末期の1945年3月、米軍の無差別爆撃で約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲から10日で77年。江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」では、家族とともに空襲の中を逃げ惑い、九死に一生を得た男性の手による連作画が公開されている。猛火に倒れた人々の姿を克明に描いたもので、センターは「悲惨な戦争の実態を次世代に伝えたい」としている。(大原圭二)

 58点に及ぶ連作画を手がけたのは、2020年10月に88歳で亡くなった新潟市の坂井 輝松てるまつ さん。空襲当時は13歳で、疎開していた母親らを除く家族5人で城東区大島町(現在の江東区大島)に暮らしていた。

 3月10日未明、B29爆撃機が投下した 焼夷しょうい 弾で街は真っ赤に燃え上がった。坂井さんが残した手記によると、空襲が始まり、「少し様子を見てから行く」と語る父親と兄を自宅に残して姉2人とともに避難した。目にしたのが、逃げ込んだ川でそのまま亡くなっていった人々や、焼け焦げて折り重なるように倒れていた多くの犠牲者の姿だった。坂井さん自身は父親や兄と無事に再会し、列車で父親の実家がある新潟に逃れることができたという。

 坂井さんは戦後50年の節目に合わせ、自身の壮絶な体験と残酷な空襲の様子を連作画「東京大空襲 硝煙の大島町」で描いた。

 「川の中の船まで燃えだした。橋の上を火が走る。そこにいた人達がバラバラと燃えながら落ちていく」「むかい側の火は一気にごうごうと うな りをあげてこちらへ。だんだん息が苦しくなってくる。もう駄目だ」。猛火の中を人々が逃げ惑う様を多彩な色遣いで描いた絵には、坂井さんによる説明書きも添えられている。

 「友人、知りあいが目の前で焼き殺されていくのが私の脳裏に強く焼きつく。死んでいった人たちのためにも記録を残しておこうと考えた」と手記に書いた坂井さんは、「あの時のことはとても割り切れるものではない。あの恐ろしい出来事が二度とあってはならない」と訴えていた。

 坂井さんは生前、連作画の複製や原画18点をセンターに寄贈しており、長く収蔵庫で保管されていた絵を見つけた学芸員の 比江島大和ひえしまひろと さん(39)は「本人に話を聞きながら、あの夜を追体験しているような感覚になった」と振り返る。

 空襲を実際に経験した人が少なくなる中で、比江島さんは「データとしての被害ではなく、生身の体験を通じて空襲を知ってもらいたい」と考え、一部を公開した。来館者からは「圧倒的な迫力や生々しさに衝撃を受け、空襲の実態を知ることができた」といった感想が寄せられたという。

 遺品を整理していた坂井さんの長女・高橋美和子さん(57)からは21年、新たに22点の原画も預かった。一部は画集「少年が見た東京大空襲」として今年2月に出版もされ、高橋さんは「父は絵を『自分の分身』だと言っていた。見てもらえる形にできて 安堵あんど している」と話す。比江島さんも「坂井さんの体験と思いを通じて、平和の芽を育てたい」と語り、今後、連作画にスポットを当てた企画展を開こうと考えている。

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