28年前の阪神・淡路大震災では162人の外国籍住民が亡くなり、言葉や制度の壁のため、生活再建に苦労を抱える人が多くいた。それを支える活動が被災地で生まれ、「多文化共生」という言葉が社会に広まる一つのきっかけとなった。
「地震の2日後に始めた電話相談が、はじまりです」
一般財団法人「ダイバーシティ研究所」の田村太郎代表理事(51)は、1995年1月17日の地震直後を、ふり返って言った。
23歳だった田村さんは、兵庫県伊丹市の自宅で被災した。高校卒業後に世界を放浪し、当時は大阪のフィリピン人向けレンタルビデオ店で働いていた。
地震の翌日、同僚と車で店へ行った。商品棚がすべて倒れた店に、フィリピン人の常連客から「どうしたらいい?」と、次々に電話がかかってきた。
神戸市内のガスタンクに亀裂が入って避難勧告が出たことを知り、現場近くに住むペルー出身の友人に電話をかけた。友人は避難勧告を知らず、慌てて自宅に呼び寄せた。
日本人との接点が、ほとんどない人ばかりだった。
これは何か動いた方がいい――。そう直感した。
日本人も外国人も 誰もが助け合い暮らすから
参加していたボランティア団…
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