〈山と海に挟まれた災害現場〉1993年8月7日、土石流が発生し、多くの人が一時孤立したJR日豊線竜ケ水駅付近=鹿児島市吉野町
仕事を終えて車で帰宅したのは午後5時半ごろ。ワイパーを動かしても前が見えないほどの大粒の雨がフロントガラスを激しく打ち付けていた。「今まで経験したことのないような雨に驚いたが、その後に生涯忘れられない救助活動に携わるとは思いもしなかった」
当時こしきが停船していた城南町まで自宅からは約6キロ。道路は既に渋滞し、歩いて向かった。国道225号と交わる産業道路の入り口付近に着いて、その理由が分かった。新川の濁流が新川橋や両側の堤防からあふれ、付近は膝下まで水がたまっていた。
交通誘導をしていた警察官から「危険だから橋の方には行かないでくれ」と注意されたが、濁流に流されないように橋の手すりを必死でつかみながら前進した。「早く船に戻らなければ」との使命感でいっぱいだった。渡った先の水深は腰ぐらいまであり、さらに進むと現在のイオン鹿児島鴨池店(鴨池2丁目)周辺は胸の辺りまであった。
船に着いたのは午後8時45分ごろ。集合できたのは、乗組員の3分の2ほどの22人だった。船長不在の中、航海長と指揮を執り、午後9時ごろに出港した。
現場に着いたのは約40分後。探照灯で照らすと、「これは大変だ」と衝撃を受けた。海側の道路沿いには「人、人、人」。大勢の人がたたずんでいた。すぐに先に到着していた小型漁船が被災者を次々と運んできた。乗組員が網はしごを甲板から降ろし、次々と引き上げた。
救助された人たちは、電話のある通信室の前に列をつくっていた。家族の安否を確認したいのだろうと思い、「できる限り使わせるように」と指示した。
1回目に209人、2回目に176人を鹿児島本港北埠頭に運んだ。夜が明けてから三船病院や花倉病院の入院患者も搬送し、救助活動が終わったのは午前10時ごろだった。
その後、被害状況を確認するために、湾奥に船を進めた時に災害の全容を初めて把握できた。数えただけでも土砂崩れは20カ所近く。「救助できた人たちが二次災害に巻き込まれずに本当に良かった」とほっとしたのを覚えている。
当時、こしきは長期整備中で、6日午前中に主な機械の試運転を終えたばかりだった。「災害はいつ起こるか分からない。身を守るためには、それぞれの備え、早め早めの避難行動が大切だ」
■メモ 8・6水害では国道10号沿いの竜ケ水地区で土石流が発生。JR日豊線の竜ケ水駅周辺で多くの人が一時孤立した。桜島フェリーや漁船が夜通しで救助に当たった。
からの記事と詳細 ( 大規模土石流が鉄路を、道路を、飲み込んだ。数百人が立ち往生…陸に孤立した被災者を救ったのは、海の男たちだった ... - 南日本新聞 )
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