Pages

Thursday, December 14, 2023

戦争被災者4千人の街、77年後の消滅 息づいた自治、仙台中心部で:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル

taritkar.blogspot.com

 【宮城】仙台市の中心街のほど近く、一つの街が今年、姿を消した。77年前、戦争被災者のための仮設住宅団地として生まれ、人々が共同体を築き、苦楽を共にした。だが行政は移転を迫り、最後の最後の1軒が2月、解体された。街の跡は観光客を呼び込む公園になった。

 仙台城跡と広瀬川にはさまれた同市青葉区・追廻(おいまわし)地区。その歴史と暮らしを振り返る展覧会「自治とバケツと、さいかちの実」が24日まで、同区のせんだいメディアテークで開催中だ。

 「リュック負いアジヤの果より辿(たど)りつき 隣人となりし三千の住民」「アヒル小屋スラム街よとののしるばかり 今尚(なお)政治の外におかるる」。展示は元住民・狩野兼雄さんのこんな短歌で始まる。

 追廻は戦前、旧陸軍の練兵場だった。敗戦翌年の1946年、国策でそこに約600戸のバラック長屋が「応急簡易住宅」として建てられる。アジア各地からの引き揚げ者や、空襲で焼け出された人たちが、着の身着のままで身を寄せた。

 追廻住宅を建てた住宅営団は、その後解散。住民は建物を買い取り、国に借地料を払って住み続けることにした。一方、仙台市は都市計画で公園にすることに決めていたため、インフラ整備を十分行わなかった。住民は資金を出し合い、自ら道路を舗装し、水道を引くなどした。

 最大約4千人が暮らした街では「自治」が確かに息づいていた。そのさまが、住民たちの記録や様々なエピソード、多数の写真で描かれる。

 市は、動物園や日本庭園の整備といった構想を打ち出しては、住民と移転の話し合いを続けた。追廻を去る人は次第に増え、宮城野区新田には、集団移転用の団地もつくられた。

 美術家の佐々瞬さん(37)は、元住民から追廻の思い出を聞き取り、移転を拒み続けた男性とも交流を続けてきた。会場では、最後の1軒の解体の様子が映像で紹介されている。

 展示は、観(み)る人にこう問いかけてくるようだ。街が終わるとは、どういうことだろう――。

 佐々さんと一緒に構成・制作を担った伊達伸明さん(59)は「この展示できれいに『終わり』にできるかというと、そうではない。物体としては終わったけれど、記憶の始まりなのかもしれない」と話す。

 思えば、東日本大震災でも多くの街が失われ、戻れない土地になった。その記憶をどうつなぐか、各地で模索が続く。そのことも想起される。

 追廻地区は青葉山公園に姿を変え、ビジターセンター「仙臺緑彩館」ができている。片隅に、街だったことを示す小さな「ふるさとの碑」が建てられている。(編集委員・石橋英昭

Adblock test (Why?)


からの記事と詳細 ( 戦争被災者4千人の街、77年後の消滅 息づいた自治、仙台中心部で:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル )
https://ift.tt/wNQTjhi

No comments:

Post a Comment