フリーランスのカメラマンとして活躍する傍ら、2018年7月の西日本豪雨の被災地で、SNSを活用して被災者のニーズをつかみ、必要な清掃用具を送る活動を行ってきた。現在はその時撮影した写真の展示会を岡山市内などで行い、災害の記憶を伝えることに力を入れている。
岡山市出身。自身が撮影した新幹線の写真が祖父に褒められたことをきっかけに、中学生の頃から鉄道の写真を撮り始めた。その後、中国や四国を拠点にフリーのカメラマンとなり、雑誌や広告で使われる鉄道写真を撮影するようになった。優れた鉄道の写真を撮るには、情報収集が欠かせない。ロケーションや太陽の向きなどの情報を仲間とSNSで情報交換し、ベストの場所と時間を探して至高の1枚を物にする。
撮影と並行して力を入れてきたのが、災害ボランティアだった。東日本大震災が発生した11年、東北から県内へ移住してきた避難者の生活を支援する団体に所属した。そこでは、情報収集やメンバー間の連絡を電話に頼っていた。つながりにくい状況や重要な情報が共有されないこともあり、支援が被災者の要望と合わない場面も経験した。
18年7月、豪雨が県内を襲い、倉敷市真備町を中心に大きな被害が出た。すぐに被災地に入ったが、現場は混乱を極めていた。「今、必要とするものを、スピード感を持って届ける。効果的な支援をするには、SNSの活用が適している」と考えた。
SNSで必要な物資を聞き取ると、ぞうきんが不足していることがわかった。町中が泥だらけなうえ、新たに縫おうにも、ミシンも水没し作ることができなかったからだ。そこで、フェイスブック(FB)を通じて協力者を募り、豪雨から2日後にはボランティア団体「ぞうきんプロジェクト」をスタート。呼びかけに「場所を貸せる」「タオルが縫えるよ」といった声が上がり、60人程度の協力を得て、ぞうきんの提供を始めた。
発生から2週間たった頃、片付けが本格化した被災地ではより多くのぞうきんが必要になったが、即座に避難所に届けることができた。「在庫が把握できており、どこへどの程度の量を送ったか、すべてFB上で共有したことで無駄のない支援ができた」と振り返る。
その後、必要なものはぞうきんからゴム手袋、そして避難所運営の人手へと移り変わっていった。その都度、求められる物資や人材を把握し、先回りで調達。切れ目のない支援を続けた。
約1年後、復旧から復興へと被災地の重点が移り変わった頃、プロジェクトを休止した。今は「記憶を風化させず、次に起きる災害に備える準備が重要」として、記憶の継承に力を入れる。昨年11月には岡山市の旭川の河川敷で、写真展を開くなどした。「情報共有といった被災地支援に必要なノウハウは積み上がった。災害はいつ起きるか分からない。大きな被害を防ぎ、適切な支援ができるよう、自分にできることを続けたい」と<次>を見据えた。(下林瑛典)
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