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2012年3月、陸前高田に赴任した在間文康弁護士の眼前に広がっていたのは、東日本大震災の深い傷跡だった。
在間弁護士は、弁護士不足で司法へのアクセスが困難な「司法過疎地」で暮らす人たちのために働きたいという志から、震災後に岩手県陸前高田市で新設された公設の法律事務所の初代所長に就いた。
弁護士として3年目という駆け出し。被災地で働くことへの不安があったという。しかし、先輩からの後押しや家族の理解、そして自身の今行かなければ後悔するという思いが、決断させた。
陸前高田の人々に寄り添い続けた4年半をふりかえり、被災した人たちに司法は何ができるのか、在間弁護士に聞いた(聞き手・構成:猪谷千香、文:矢口美有)
●「被災地で役に立てるのか」と葛藤
在間弁護士が司法過疎地の問題に興味を持ったのは、司法試験に合格したあとにおこなわれるガイダンスでのことだった。公設の法律事務所である「ひまわり基金法律事務所」は2000年以降、全国で開設されてきたが、その草創期を支えた弁護士たちの話を聞く機会があった。
「地域の人たちの生活と距離が近く、その人たちの人生に関わるような重大な問題について法的なサポートができる。そんな仕事ができたらいいなと思うようになりました」
2009年12月に弁護士登録したあと、司法過疎地に赴任する弁護士を養成する東京の弁護士事務所に入所した。順当にいけば、2012年にはどこかの地域に赴任する。司法修習先が盛岡市だったこともあり、在間弁護士は岩手県内の公設事務所に赴任したいと考えていた。
しかし、2011年3月11日、東日本大震災が起こった。予定していた赴任は一旦、白紙となったが、陸前高田に新設する「ひまわり基金法律事務所」の所長に応募しないかという打診が来た。
「正直、尻込みをしている気持ちのほうが強かったです」
在間弁護士は兵庫県西宮市に生まれ育った。1995年に起きた阪神淡路大震災のときは、高校1年生。激しい揺れに襲われ、自宅を出るとあちこちで建物が崩れていた。父親とともに、つぶれた民家から下敷きとなった人たちを助けた。命が助かった人もいれば、亡くなった人もいた。
震災の経験があるだけに、被災地の状況は、よりリアリティを持って想像できた。結婚したばかりの妻に苦労をかけたくないとも思った。
「特に、弁護士としてまだ2年目の自分が、あれだけの大きな被害を受けた地域の新設事務所に行って、果たして役に立てるのかと悩みました。もっと経験のある人のほうが良いのでは…と、ネガティブな気持ちが強かったですね」
一方で、被災地での弁護士活動をここで諦めれば、一生後悔するかもしれないという葛藤もあった。阪神淡路大震災のときに「もっとこうしたら人の役に立てたのではないか」というもやもやした思いを抱えていた。
逡巡する中、修習時代にお世話になった岩手弁護士会の吉江暢洋(よしえ・のぶひろ)弁護士が「信頼できる在間にこっちに来て頑張ってほしい」と言葉をかけてくれた。不安がないはずはなかった妻も「一緒に頑張ろう」といって支えてくれたという。
信頼する人たちに背中を押され、2011年5月、在間弁護士は実際に陸前高田と大船渡に足を運んだ。「町が津波でなくなっている光景をみて、本当に衝撃を受けました」とふり返る。
「津波で被災した地域と被災を免れた地域に境目がありました。その境目近くの家から、被災者の方が家財道具を運び出そうとされている姿を目の当たりにしたとき、阪神淡路大震災の体験が、自分の中で蘇りました」
やはり、ここで弁護士として働こうと決意した瞬間だった。
●仮設住宅でお茶を飲みながら話を聞く
2012年3月、陸前高田に赴任した。当時、東日本大震災の被災地で初めて開設された公設事務所として、かなり報道され、地元の人たちも歓迎してくれたという。次から次へと相談者が訪れ、多い月だと40件もの新規相談があった。自身の役割を果たせていると実感する一方で、問題もあった。
「みなさん、実際に事務所へ相談にいらっしゃるまでにとても悩まれていました。こわい弁護士が出てきたらどうしようとか、こんな悩みは法律相談ではないと言われるんじゃないかとか、そういう不安を乗り越えていらっしゃっていた。
しかし、その影には弁護士に相談するというハードルが高くて来られない人が相当数いると思いました」
当時、被災地では、震災直後から東京近郊の弁護士とNPOがタッグを組んで、避難所や仮設住宅を回る活動をしていた。紙芝居で支援制度の説明をしたあと、お茶を飲みながら話をするというもので、法律相談会ではなく「お茶っこ会」と呼ぶことで、敷居を下げていた。
陸前高田でも活動する機会があり、在間弁護士も参加することになった。
「被災者の方に限定されませんが、問題を抱えている方はそもそもそれが問題だと気づいていないことがあります。さらに、それが問題だとは気づいていても、その問題が法律で解決できると気づいてないこともあります」
仮設住宅に行き、お茶を飲みながら話を聞いていると、紙芝居の中で自分に当てはまったことや困っていることをポツリポツリと話してくれた。中には法的には解決できないことも含まれていたが、弁護士が問題を整理することで解決へと導くサポートができたという。
「困っている方が弁護士に相談に来るという入口のところに、いかに辿り着けるかが重要です。そのためにはとても重要な活動だと気付かされました」
その後、現地にいる在間弁護士が主体となるような体制が整えられた。現在の東京事務所に移ってからも10年間、この活動を続けた。
2012年10月、陸前高田市の要谷仮設住宅をまわる在間弁護士(中央右、提供写真)
●被災者が望みたい人生を歩めるように
在間弁護士が手がけた案件のうち、自宅が被災してしまい、ローンだけが残ってしまったといういわゆる「被災ローン」についての相談が多かったという。中でも、印象に残っている家族がいる。
「仮設住宅の巡回活動で聞いたご相談でした。まだ建てて数年の家が津波で流されてしまい、3000万円ほどの住宅ローンが残ったというご夫婦でした。そもそも家が流されても、住宅ローンを払わなくてはいけないの?というところから相談が始まりました」
ちょうど被災ローン減免制度が始まっていたため、「この制度を使えば減額か免除される可能性があります」とアドバイスをした。手続きは困難を極めたが、在間弁護士が粘り強く交渉し、最終的にはローンの全額免除を受けられることになったという。
「ローンが免除されたことで、相談者のご夫婦はもう一度、陸前高田に家を建てることができました。もし、免除されなければ、仮設住宅から早くに出て行くために、お子さん二人と残った住宅ローンを抱えて、別の地域の賃貸住宅に引っ越す選択肢しか残されていませんでした」
夫婦は震災前とあまり変わらない環境で生活できることをとても喜び、在間弁護士に感謝したという。
「私も陸前高田の一員として、ご家族4人の暮らしを守れたことはとても嬉しかったです。相談者が望む人生を歩めるよう、貢献できたと思いました」
●被災者制度が抱える課題
在間弁護士が、現在も問題意識を持ち続けているのが「災害関連死」だ。あるとき、夫を心筋梗塞で亡くしたという女性から相談があった。
震災前は夫婦で店を営んでいたが、津波で建物が流されてしまったという。自宅は高台で無事だったものの、収入は途絶える中、事業のローンの返済や子どもの学費の支払いなど、経済的に厳しい状況にあった。
「周りからは、家が被災していないので被災者として見られていない方でした。実際、被災者に支給されるお金も受け取れていないし、失業給付も受けられていませんでした」
女性の夫は、店を再開するために奔走したが、徐々に体調が悪化して2011年12月、亡くなった。半年後、女性が災害関連死として災害弔慰金の申請をした。しかし、不支給と判断されてしまっていた。
在間弁護士は再申請の手続きを支援。最終的には裁判を起こし、女性の夫が亡くなったのは災害に関連すると認められた。
「女性は、震災でご主人が亡くなったことに加え、夫の死が災害とは関係がないとされたことに対して、深く傷ついていました。
それが訴訟によって、夫が亡くなったのは震災のせいなのだと公的に認められ、震災で止まっていた心の時計が再度動き出したとおっしゃっていました。そのお手伝いができたことはとても意義深いことでした」
しかし、在間弁護士が裁判を終えて感じたのは、被災者支援制度の問題点だった。
「こんな大変な目にあっている人が被災者として扱われない今の制度には、問題があると思いました。もしも、被災者支援制度が整っていたら、女性のご主人は追い詰められて病に倒れることはなかったはずです。
被災者支援制度を整えていくことで、将来助けられる命があると強く感じました」
弁護士として活動する中で見えたさまざまな制度の課題を放置すれば、問題が埋もれてしまう。在間弁護士は、現在も当事者に寄り添った制度に向けた取り組みを続けている。
2022年3月、陸前高田市の仮設住宅跡地を訪れた在間弁護士(提供写真)
●困っている人のために弁護士ができること
当初、在間弁護士は3年の任期で陸前高田に赴任していた。しかし、2年が経ったころ、残り1年でここを離れるべきではないと感じ始めていた。
「仮設住宅の巡回活動をしていたことで、地域の方が法律事務所に相談しに行くというよりも、『在間さんのところに相談しに行く』と認識してくれるようになりました。地域の中で司法サービスを充実させるには、弁護士個人に対する信頼が密接不可分なんです」
自分が去ったあとの「ひまわり基金法律事務所」に次の弁護士が来ても、信頼関係の構築はまたゼロからになってしまう。とはいえ、陸前高田で独立して、今後、何十年も1人で責任を負い続けていくことは現実的ではなかった。
「そんな中、私と同じようにひまわり基金を経験した同期の弁護士たちが、東京と司法過疎地である奄美を拠点とする弁護士法人を一緒に作らないかと誘ってくれました」
その地域で活動していた弁護士がずっと関わり続けることができれば、地域の方から司法を身近なものだと感じてもらえる。そんな思いから2016年、現在の弁護士事務所である「弁護士法人 空と海 そらうみ法律事務所」は設立されたという。
「当時私たちが掲げていたのは、人の継続性と地域からの信頼の継続性、個人に依存しない仕組みです。私たちとしても弁護士として育ててもらい、やりがいを感じている地域と関わっていけることは、職業人としての喜びです」
最後に、被災地で尽力してきた在間弁護士が考える弁護士の役割を聞いた。
「複合的、重層的な問題の中に埋もれてしまっている方に、それがどのような問題であり、どのように整理できるのか、気づくお手伝いをする。
弁護士業として手続きや裁判をする前段階にも、そうした方に手を差し伸べて導くなど、できることがあると思っています。そして、それがさまざまな制度の不十分な点を見つけ出す、1つの機会になると思います」
【在間文康弁護士略歴】 1978年、兵庫県西宮市生まれ。2005年、京都大学法学部卒業、2007年、東京大学法科大学院修了。2009年に弁護士登録し、アストレア法律事務所(東京都新宿区)に入所。2012年、岩手県陸前高田市にて、いわて三陸ひまわり基金法律事務所(公設事務所)を新規開設し、初代所長として執務。2016年に「弁護士法人 空と海」を開設、現在は東京事務所に勤務する。日本弁護士連合会災害復興支援委員会幹事、日本弁護士連合会公設事務所・法律相談センター 幹事を務める。新日本法規 「自然災害・感染症をめぐる労務管理-法的リスクと実務対応-」(2021年10月)など、被災者救済に関する著作多数。メディアや講演でも活躍している。
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