米原市は二十七日、県行政書士会(大津市)と災害時の被災者支援に関する協定を結んだ。米原市内で災害が発生した際、同会が被災者からの相談窓口を設け、罹災(りさい)証明書の申請などを支援する。...
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米原市は二十七日、県行政書士会(大津市)と災害時の被災者支援に関する協定を結んだ。米原市内で災害が発生した際、同会が被災者からの相談窓口を設け、罹災(りさい)証明書の申請などを支援する。...
2022年7月1日(金)
静岡県熱海市の土石流災害からまもなく1年がたちます。27人が亡くなりいまだに1人が行方不明です。住まいを失った多くの被災者は民間の借り上げ住宅や公営住宅に身を寄せています。「被害者の会」副会長の太田滋さんと妻のかおりさんに、坂庭国晴・NPO住まいの改善センター理事長と聞きました。
(日本共産党国民運動委員会・高瀬康正)
―被災者の住まいの現状はどうなっていますか。
同じ地域の住民が避難先で離れ離れになっています。熱海市は現状を把握していますが、被災者が求める情報を的確に出してくれないので、不安がつのる状況にあります。
私の家は全壊ですが、戻ろうと思っています。元の地に戻る人は半数ぐらい。私たちのように全壊した被災者が戻れるめどはまったくありません。日時がたつとともに子育て世帯や高齢世帯は今後の見通しが立たなくなります。戻ろうと思っていた人も戻れなくなる可能性があります。
―市議会では調査特別委員会(百条委員会)が開かれました。災害の原因解明は進んでいますか。
土石流災害の原因をつくった業者に損害賠償を請求する裁判が続いています。近く熱海市など行政の違法行為や不作為を問う裁判の提訴を検討しています。
―被災から1年がたちます。
「もう1年、まだ1年」という複雑な思いです。市は復興計画についてきちんと説明してくれない。時間がたてばあきらめると思っているのではと、対応の不誠実さに怒りを覚えます。避難者と住民参加の「まちづくりワークショップ」があり、みんなが要望を出しました。しかし、市が委託したコンサルタント会社は被災者に向き合った丁寧な説明をしてくれません。
市は、私が農業をやっていた畑を住宅地にしようと考えているようですが、息子も農業をやりたいと言っているので残してほしい。とにかく被災者の意見や要望を十分反映した復興を進めてほしい。そうでないと元に戻る人がどんどん減るのではないかと心配しています。
東日本大震災で被災した住民らの診療に尽力した元石巻市包括ケアセンター所長で医師の長純一(ちょう・じゅんいち)氏が28日午後3時38分、膵臓(すいぞう)がんのため市内で死去した。56歳。東京都出身。一般弔問は30日午後6時からと7月1日午前10時から、石巻市大街道北3の3の8、石巻大街道斎場清月記で。喪主は妻明子(あきこ)さん。
体調を崩して5月下旬ごろに医療機関を受診し、自宅で療養。21日に動画配信で末期の膵臓がんであることを発表していた。
長氏は震災後の2012年に長野県医療団長として石巻市を訪れ、市内最大の仮設住宅団地に開設された市立病院開成仮診療所長として被災者の心身のケアに当たった。
21年2月まで市包括ケアセンター所長や雄勝診療所長などを務め、地域包括ケアの推進やコミュニティー再生にも取り組んだ。同4月の石巻市長選と10月の知事選にそれぞれ無所属で立候補し、落選。市内の医療機関の院長を務めていた。
長氏の支援組織会長で仮設団地の自治会長として連携した山崎信哉さん(86)は「住民のために24時間365日対応してくれ、安心感をもらった。石巻のためにもっと活躍してほしかった。残念で、悔しい」と悼んだ。
支援組織「未来へ、いのちをつなぐ石巻の会」は後日、しのぶ会を開く予定。
米原市は二十七日、県行政書士会(大津市)と災害時の被災者支援に関する協定を結んだ。米原市内で災害が発生した際、同会が被災者からの相談窓口を設け、罹災(りさい)証明書の申請などを支援する。...
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災害発生時に被災者の行政手続きなどを支援するため、米原市は27日、県行政書士会と協定を締結した。
大規模災害が起きた場合、市の要請で同会から毎日二十数人の行政書士が被災地に駆け付け、相談窓口を設ける。お年寄りや体の不自由な人には、訪問して支援業務を行うことも想定している。
罹(り)災証明書の発行申請や壊れた車の…
参院選を戦う各党にとって東日本大震災からの復興は重要論点の一つだ。東北の津波被災地では、ハード面のまちづくり事業がほぼ完了する自治体が増える一方、被災者の心のケアといったソフト対策への中長期支援、地域コミュニティーの再構築と多くの課題が道半ばにある。求められる対応は難しさを増しているとも言える。各党はしっかりと政策を競ってほしい。
震災の教訓を生かして解決に導ける課題に目を向けたい。被災者一人一人の実情に応じて生活再建を目指す伴走型の支援活動だ。災害ケースマネジメントと称される。
申請や相談を待つことなく被災者への戸別訪問を通してニーズや悩み、課題を把握。行政と弁護士や建築士、保健師ら専門家が連携し、生活再建を手助けする。震災では仙台市や大船渡市が取り入れた。支援の手が届かず、壊れた自宅に暮らす「在宅被災者」が注目されるきっかけになった。
災害ケースマネジメントの先駆けとされる仙台市の支援活動は、仮設住宅の入居世帯が抱える課題を「生活再建可能」「日常生活支援」「住まいの再建」「日常生活・住まいの再建」といった類型に区分。シルバー人材センターと連携して全戸を訪ねるなどして、2017年3月末までに市内被災世帯の住まい再建につなげた。
最大震度6弱を観測した16年の鳥取県中部地震を踏まえ、県は18年に全国で初めて災害ケースマネジメントを条例で定めた。こうした自治体主導による取り組みが続く中で「国が法制度として位置付けるべきだ」との声が相次ぎ、全国知事会や震災被災地の民間団体が制度化を求めた。
岸田文雄首相は昨年12月の参院本会議で「多様な主体が連携した災害ケースマネジメントの仕組みづくりを進めたい」と明言した。内閣府は今年5月、災害時の被災者支援に関する有識者検討会を初めて開催。災害ケースマネジメントの普及を目指し、自治体での体制づくりやモデルとなる仕組みの確立、財政面や人材面での国の支援策を探っていく。
住宅の壊れた程度で方策が決まる従来のルールは、社会的に弱い立場に置かれた被災者の意向が反映されにくいとされる。現在の支援制度は申請主義が基本で、独居被災者らが複雑な判断をするのは現実的に難しい。専門家が連携して助言を続けることで柔軟な対応が可能となり、支援の実効性も高まるだろう。
参院選では物価高対策や安全保障が主な争点となり、復興はややかすみがちになっている。地震に加え、大雨、台風と全国で災害が相次ぐ中、震災被災地で顕在化した課題と向き合うことは、他の被災地での有効な施策にも通じる。重層的な支援に結び付けるため、各党の活発な論戦に期待したい。
静岡県熱海市伊豆山(いずさん)の土石流災害で、市は二十六日、被災者らが復興まちづくりを話し合う第二回のワークショップを開いた。
原則立ち入り禁止の警戒区域に住んでいた住民ら二十七人が出席。避難所や防災など十一テーマについて、九グループに分かれて意見を出し合った。
財政的な補助や支援をテーマにした班からは「お金の面で支援なしでは戻れない」「義援金では足りない」など不安の声が上がった。参加した中島秀人さん(53)は終了後、「支援制度を考えてもらい、なるべく多くの人が戻れるようにしてほしい」と求めた。
また、グループワークの前には、ワークショップの参加者の対象が、警戒区域内に住んでいた人と、被災三地区の住民に限られていることを疑問視する声も。「伊豆山の別の地区にも広げるべきだ」との意見が出た。市は今後、対応を検討する。
ワークショップは被災者らの意見を集約し、市が策定を進める復興計画のうち、被災地の土地利用などの方向性を盛り込む復興まちづくり計画に反映させるのが目的。五月末から始め、九月末までに計五回開く。(山中正義)
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福井地震から二十八日で七十四年。当時最大震度が6だった震度階級を7までに改めるきっかけとなった都市直下型地震の教訓を生かそうと、県内外の研究者たちが福井県内を訪れて震災経験者から体験談を聞き、それぞれの研究分野で防災対策について意見交換した。企画した兵庫県立大の室崎益輝名誉教授は「福井地震の記憶を神戸の人に伝えておけば、阪神・淡路大震災はあんなに大きな被害にならなかったのではないか」と語った。 (水野志保)...
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「こんなの納得できない。計画の中身が空っぽだ」。5月下旬、市役所で開かれた熱海市伊豆山の土石流災害に関する伊豆山復興計画検討委員会。復興の方向性を示す市の基本計画案に対し、委員の1人で被災者の中島秀人さん(53)は憤った。市はこの日、11人の委員から了承を得て、次の段階に議論を進めようと考えていた。緊迫した会議室の奥で傍聴していた被災者も、中島さんの訴えに大きくうなずいた。
中島さんの自宅は逢初川中流域の警戒区域内にあり、現在は伊豆山を離れて暮らしている。同じ境遇の住民でつくる「警戒区域未来の会」の代表として、被災者の生活再建に向けた経済的支援などの必要性を何度も訴えてきたが、計画案にその声は反映されていなかった。市ができる支援、できない支援があることは理解している。ただ、「被災者の切実な思いが無視されている。何のために委員を務めているのか分からない」と打ち明ける。
市はこの会議の2日後、警戒区域内の道路計画に関する住民説明会を開いた。復旧復興を急ぎたい市は、土石流が流れ下った逢初川の両岸に幅4メートルの道路を整備する図面を示した。さらに、行政が用地買収して宅地や道路を整備し、宅地を再分譲する「小規模住宅地区改良事業」を採用すると説明。突然示された案に、中島さんは「何も事前説明がない。市は『被災者に寄り添う』と言っているが、対話している気がしない」と不信感を抱く。
復興に向けてかみ合わない行政と被災者-。市経営企画部の中田吉則部長は、復興基本計画について「遺族や被災者だけでなく伊豆山全体の人が納得できる形にしたい」と説明する。市は被災地の復旧にとどまることなく、伊豆山の歴史文化の継承や観光活性化につながる「創造的復興」を掲げる。ただ、用地買収を伴う道路などのインフラ整備は、被災者の意見や個別事情が異なり、「被災者の意見を全て集約するのは限界がある」と理解を求める。
しかし、それまで市が長期避難世帯に生活課題や今後の居住に関するアンケートを実施したのは2021年11月の1回だけ。発災9カ月後の4月にようやく生活再建に向けた具体的な個別ヒアリングを始めた。市は伊豆山に戻りたいかを尋ねたが、ある被災者は「たった15分程度の会話で終わった。被災者の声をくみ取ろうとする本気度が伝わってこなかった」と明かす。
市は住民意見を集約しようと5月から月1回のワークショップも始めた。ただ、参加者は30人に限られ、議論の場に市職員は不在。まちづくりを真剣に語り合おうと集まった被災者からは「不満を持った被災者のガス抜きだ」との声が漏れる。
熊本地震などの被災地で復興まちづくりに携わり、学識経験者として伊豆山復興計画検討委の委員に名を連ねるNPO法人くらしまち継承機構(静岡市)の伊藤光造理事長は「市が被災者の信頼を得られる努力をしなければ復興は成し遂げられない」と忠告する。
“あの日”から、毎月3日は熱海市伊豆山にとって特別な日になった。土石流が流れ下った逢初(あいぞめ)川流域。地元住民や被災者らは犠牲者を悼み、悲劇が繰り返されないように祈る。しかし同時に、境遇が異なる人々の心理的な隔たりが浮き彫りになる日でもある。復旧復興を目指す上で乗り越えなければならない「分断」という障害に地域は直面している。
11回目の月命日の6月3日。被災現場に近い寺院では、地元主要団体でつくる「熱海伊豆山で心をつなぐ集い」が発災時刻の午前10時半に合わせ慰霊法要を営んでいた。「被災者は今も大変な思いをしている。伊豆山の安心安全なまちづくりをお手伝いしたい」。参列者は決意を新たにした。
同じ時刻-。200メートルほど離れた別の場所に遺族や被災者らでつくる「被害者の会」の有志が集まっていた。土石流で流された家の土台や、泥をかぶったままの家屋が残る現場に向かって被災者は手を合わせた。「時間はたったが、目に見える変化はない」。自宅を失った男性は荒廃した光景を恨めしそうに眺めた。
今年2月以降、目と鼻の先の場所で両団体は別々に慰霊行事を営んでいる。人災への怒り、そして古里への思い。どちらも同じはずなのに、擦れ違い続ける。
なぜか。市外の応急仮設住宅で暮らす被災者の男性(65)は「地元の情報が届きにくい。知らないうちに住民団体が設立され、被災者不在で物事を進めている。『自分はもう伊豆山の住民ではないのか』と悲しくなった」と打ち明ける。
実際には「心をつなぐ集い」は設立後、伊豆山を離れて暮らす被災者に市を通じて案内文を送っていた。ただ、連絡用に避難先の住所などの提供に応じたのは約30軒にとどまる。大舘節生代表世話人(76)は「できれば一緒に法要を営みたい。会話を交わすことで絆が深まるはず」と願う。だが、分断が解消される兆しは今のところ見えない。
被災者と行政の信頼関係も揺らいでいる。当初、避難所には職員が不眠不休で詰めたが、市長や幹部の姿はなかった。「一番苦しい時になぜ声を聞いてくれないのか」「私たちを避けているのか」。多くの被災者からそんな声が聞かれた。
発災から約1カ月後、不満は爆発した。生活再建や住民が不安視する「第二の盛り土」に関する市の説明会。一部の被災者からこれまでの行政対応の不満が噴き出し、会は紛糾した。市経営企画部の中田吉則部長は「被災者の生々しい体験談を直接聞いたのはかなり時間がたってからだった。もっと避難所や地域に入るべきだった」と悔やむ。
市や関係各所の連絡調整に奔走してきた伊豆山地区連合町内会長の当摩達夫さん(75)も「先の見えない不安が市への批判という形で噴出した。あの時期から伊豆山を離れた被災者と町内会の間にもすれ違いが生じてきた」と振り返る。
行政と被災者のはざまで復興への道筋を探り続けた1年。「一人でも多くの避難者に戻ってきてほしい。その気持ちは変わらない。でもどうすればいいのか」
当摩さんはまだ、出口を見いだせずにいる。
◇
熱海市伊豆山を襲った大規模土石流は7月3日で発生から1年を迎える。復旧復興を願う声が日増しに高まる中、その流れに違和感を覚える人もいる。被災者や住民が願う地域の姿とは何か。被災地の今を追う。
AARはアフガニスタンの首都・カブールにある現地事務所を中心に情報収集を開始しました。1999年からアフガニスタンで地雷・不発弾の被害を防ぐ回避教育支援、障がい者支援、災害の被災者支援に取り組んできた実績と経験を踏まえて、緊急支援活動を実施します。
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水害などの被災者から預かった写真の汚れを落とす「写真洗浄ボランティア」について発信する「第1回写真洗浄フォーラム」が、神戸市東灘区田中町5のコープカルチャー生活文化センターで開かれた。兵庫県内外の7団体が写真洗浄の意義や方法を伝え、大学生や地域住民ら約40人が理解を深めた。
神戸の被災支援ボランティア団体「おたがいさまプロジェクト」が企画した。
同団体は、2018年の西日本豪雨での復興支援をきっかけに発足。被災地で子どもの学習支援をしたり「足湯」を提供したりするほか、神戸で泥などで汚れた写真の洗浄を続ける。
フォーラムでは、同団体代表の大竹修さん(44)が写真洗浄について「被災地に行けなくても一人一人の大切な思い出に寄り添える支援」と強調した。
「写真は水に漬かると、紫や緑色ににじんだり、被写体が消えてしまうこともある。丁寧な作業が欠かせない」と難しさを説明。アルバムごと乾燥させた後、写真を1枚ずつ取り出し、洗って干す-といった作業の流れを伝えた。
参加者は、写真に残った汚れをエタノールで拭き上げるなど洗浄作業を体験。初めてだという大阪大学4年の学生(22)は「持ち主の気持ちに寄り添いながら作業することが大切だと思ったが難しかった」と振り返った。
同団体理事の深田将吾さん(31)は「初めて写真の洗浄を体験した人が多く、うれしかった。被災から年月がたっても、復興への取り組みは続いていると知ってもらえたのでは」と話した。
おたがいさまプロジェクトTEL070・8577・3355
(橘高 声)
東京電力福島第一原発事故で避難を強いられ、国の責任を法廷の場で追及してきた原告らの熱気に包まれていた最高裁の正門前。17日午後2時半の開廷から10分ほど過ぎると、一転して静まりかえった。判決内容が、ニュースサイトの速報で流れた。「国の責任認めず」。原告の女性は涙を拭い、小さな声でつぶやいた。「どうして…」
最高裁第2小法廷から出てきたのは、福島訴訟弁護団の
福島訴訟の原告で、福島県桑折町から京都市に避難している太田桜子さん(80)は「訴訟を励みに避難生活を耐えてきた。最後にこんなに冷たい判決が出るなんて。被災者の苦しみが無視されたようで悲しい」とぼうぜんとしていた。福島市の紺野重秋さん(84)は「国に
「避難して11年。国の責任の追及一筋でやってきた。こんな判決が出ると思っていなかった。頭が真っ白になった」。最高裁の判決後、東京都内で開かれた四訴訟の原告団の合同記者会見で、群馬訴訟原告団代表の丹治杉江さん(65)は時折涙を拭った。
原発事故後、福島県いわき市から群馬県内に避難し、2012年11月からJR前橋駅前で毎週金曜に脱原発を呼び掛ける活動を続けてきた。この日は「裁判所が事故原因と責任を明らかにしてくれる」と信じ、駅前に立たず最高裁の傍聴席に座ったが、想定外の結果に衝撃を受けた。
だからといって、黙るつもりはない。「この裁判がいかに不正義かを伝えるのが私の仕事になった。事故が起きても国は責任をとらず、被災者を守らない。こんな国に原発を動かす資格はない。原発はもう動かさせません」
福島県南相馬市から愛媛県に避難した渡部寛志さん(43)は、高校三年の長女、明歩さん(17)と中学二年の次女(13)と会見に臨んだ。
渡部さんは最初「思いもしない判決が出てしまった。何をすればいいのか、頭が混乱している」とうつむいた。しかし、明歩さんが「私と妹は小さいころ震災に遭って、心が不安定な中、裁判活動を頑張ってきた。私たちの努力が一瞬にして奪われてしまい悔しい」と訴えると、隣に座っていた妹が目をぬぐった。渡部さんは「あきらめず、時間はかかるかもしれないが、前向きに進む姿を見せたい」と顔を上げた。
原告が3000人を超える福島訴訟の原告団長、中島孝さん(66)も「負けたけど、われわれの暮らしが変わるわけでない。苦難をひきついで今日がある。ここからまた、立ち上がろうと後続の裁判の人たちに伝えたい」と、悔しさをはねのけて奮い立たせるようにきっぱりと言った。
放射線量が高く立ち入り規制が続く福島県浪江町の帰還困難区域に自宅がある、千葉訴訟の小丸哲也さん(92)は「国も東電も40年、『原発は安全、安心』と言い続けてきた。国の責任は絶対ある。(国に)忖度した判決だ」と憤った。
馬奈木弁護士は「あれだけの原発事故を起こしながら、事故の深刻さ、被害を受けた人たちに正面から向き合わず判決が出された。被害は防げません、でも国に責任はありません、それでも原発を続けていいのかと、私たちの社会が問われている」と訴えた。(小野沢健太、加藤益丈、片山夏子)
▶次ページ 別の訴訟の原告らも落胆
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2018年7月に広島県を中心に甚大な被害をもたらした西日本豪雨では、高齢の被災者で避難生活による認知機能や認知症の悪化が見られ、興奮などの周辺症状には漢方薬が効果的だったことが分かった。調査に当たった広島大学大学院医系科学研究科(広島市)地域医療システム学講座の石田亮子講師、吉田秀平助教に聞いた。
高齢者の避難所生活は認知機能の低下リスクがある
▽自宅でも悪化
西日本豪雨災害では避難所での生活による被災者の健康被害が懸念された。石田講師らの研究チームは、被災による認知機能や認知症治療への影響を医療、介護の公的データを用いて調査。対象は甚大な被害を受けた広島、岡山、愛媛の3県の介護保険による介護サービスを受けた高齢者約26万人で、被災者はうち約1%だった。
被災から半年間にわたって認知機能を観察した結果、被災者は被災しなかった人たちに比べ、認知機能が悪化する割合が高かった。吉田助教は「特に、自宅にいる高齢者で認知機能低下のリスクが高いことが分かりました。自宅から避難所に避難したことなど、環境の変化が影響したと考えられます」と分析する。
▽抑肝散の処方が増加
災害による避難生活が認知機能を悪化させることは東日本大震災などでも確認されているが、認知症治療の変化を調べた報告は少なく、研究チームは、災害後の認知症治療薬の処方回数や量の変化を調査した。
その結果、被災者は被災しなかった人に比べ、災害後に新たに認知症治療薬を処方された割合が明らかに高く、災害前から治療薬が処方されていた場合にはその処方量の増加率が高かった。
さらに研究チームは、処方薬の傾向についても調査。3県の高齢者約137万人のレセプトデータを検討したところ、漢方薬の抑肝散(よくかんさん)が、発災後1年間で処方された人の割合が被災しなかった人に比べ約1.5倍高かった。
抑肝散は神経症、不眠などに効果がある漢方薬で、興奮、いらいらなど、認知症の周辺症状に対する使用が勧められている。石田講師は「認知症高齢者のメンタルケアを行いながら災害を乗り切る上で、抑肝散などの漢方薬の活用が期待されます」と話す。(メディカルトリビューン=時事)(記事の内容、医師の所属、肩書などは取材当時のものです)
(2022/06/22 05:00)
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連載「6・17最高裁判決/原発被災者4訴訟」④愛媛
「フクシマさん、フクシマさん」。福島県南相馬市から愛媛県に避難した渡部寛志さん(43)は、愛媛で知り合った人からこう呼ばれることがある。東京電力福島第一原発事故から11年がたっても、「避難者」であり続ける。そして、差別もなくならない。
福島から愛媛に避難しているのは、わずか22人(4月時点、復興庁調べ)。人数が少ないだけに「避難者が目立ち、差別につながりやすい」。住居を購入しても、近所の人たちに福島から来たことを隠し続けている避難者もいる。
事故前、原発の北約12キロにある南相馬市小高区で妻と娘2人と暮らし、専業農家をしていた。政府の避難指示で町を離れ、事故から1カ月後、大学時代を過ごした愛媛に避難した。
遠く離れた地での避難生活が長引き、妻と意見が衝突することが増え、2019年に離婚した。渡部さんと次女(13)が残り、長女(17)は元妻と福島県須賀川市に移った。家族がバラバラになった現実に、「原発事故が起きなかったなら…」との思いが拭えない。
国と東電を相手に裁判を起こすきっかけとなったのは、松山市内の住職の呼びかけで事故直後に始まった避難者の交流会。月1回集まると、「経済的に苦しい」と窮状を訴える声が相次いだ。賠償を東電に任せ、避難者支援も不十分なまま放置している国が許せなかった。
交流会に参加する避難者を一軒一軒訪ねて説明し、原告を募った。子育て世代の避難者が多く、事故時に20歳未満だった原告は8人と3割に上る。
15年1月、松山地裁での第1回口頭弁論で、国の冷酷な態度を見せつけられた。避難生活の苦しさを法廷で意見陳述しようとしたところ、国の代理人は「(裁判の)証拠にならないから不要だ」と、耳を傾けようとしなかった。その後も延々と科学的な論争が続き、傍聴席で疑問に思った。「この裁判に、避難者の居場所はあるのだろうか」
それでも、声を上げなければ自分たちの苦しみがなかったことにされてしまう。最高裁の法廷で避難者の思いを伝えようと、5月に原告たちを訪ねて回った。
その中に、いじめに遭い不登校になった兄弟がいた。弟は20年秋に自殺した。22歳の兄は「避難者同士が通える避難者学校を全国につくってほしかった」と吐露し、「『悪かった』と素直に謝罪ができる国だったら、そもそも事故は起きなかった」と憤った。
渡部さんの中学2年の次女は「同級生は原発事故をあまり知らない。知らないとまた事故を起こすから、判決が出たら『国の政策によって起きた事故』と教科書に載せてほしい」。
若い原告の声を聞き、渡部さんは思う。「これからも事故を背負って生きていく若者が、希望を持てる判決を言い渡してほしい」(小野沢健太)
愛媛訴訟 東京電力福島第一原発事故で福島県内から愛媛県内に避難した住民が2014年3月から順次提訴し、25人が国と東電に慰謝料を請求。一審松山地裁(久保井恵子裁判長)は19年3月26日、国と東電に計2743万円の支払いを命じた。21年9月29日、二審高松高裁(神山隆一裁判長)も、東電に津波対策を講じさせなかったのは「許容される限度を逸脱して著しく合理性を欠く」と国の責任を認め、計4621万円の支払いを命じた。東電の賠償責任は最高裁第2小法廷(菅野博之裁判長)が22年3月30日付で東電の上告を退け、確定した。
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2020年の熊本豪雨で大きな被害を受けた熊本県人吉市や球磨村では、生活再建のめどが立って仮設団地を退去する人が相次ぐ一方、仮設暮らしの長期化が見込まれる人もいる。豪雨から、7月4日で2年。被災地では、高齢者らの孤立防止と将来不安の解消が課題になりつつある。
「花がきれいですね」。5月中旬、球磨村地域支え合いセンターが村総合運動公園の仮設団地で開いた交流会。村外に自宅を再建した人も含め、8人がプランターの花を植え替えて気持ちを和ませた。「仮設で知り合った人が退去していく。話し相手がなくて寂しい」と話す1人暮らしの宮﨑スエコさん(83)は、交流会が楽しみという。
球磨村民が入居する仮設団地4カ所の入居者は、ピーク時の計265世帯(20年12月末)から計171世帯(5月末)に減少。人吉市民が生活している仮設団地13カ所も、計345世帯(20年12月末)から計259世帯(4月末)に減っている。
球磨村や人吉市の地域支え合いセンターによると、仮設団地を退去できない理由はリフォームの遅れや災害公営住宅(復興住宅)の完成待ちなど。経済的に再建が困難な人もいる。人吉市城本町の仮設団地で復興住宅への入居を希望している黄檗[きわだ]ヒサエさん(80)は「年金暮らしなので仮設を退去した後の生活が不安」と打ち明ける。
アパートなどのみなし仮設住宅に入居する人の見守りも課題だ。人吉市下林町の井口幸子さん(79)は昨年11月の自宅再建まで、子どものいる熊本市でみなし仮設に入居。「近所に同じ境遇の豪雨被災者がいなかったため、寂しかった」と振り返る。
球磨村と人吉市の地域支え合いセンターは多い入居者で週1、2回、少ない入居者で月1回、仮設団地の各戸を訪問。球磨村のセンターは交流会を、人吉市のセンターは相談会と「オープンカフェ」をそれぞれ月1回開いている。今後は外に出たがらない人にさらに声かけをしたり、新型コロナウイルス禍の状況をみてイベントを増やしたりして孤立防止や不安解消につなげたいとしている。
人吉市地域支え合いセンターの村口桂子センター長は「交流会などをきっかけに、知り合った入居者の皆さんたちで集い続けてもらうとうれしい」と提案。被災者支援に詳しい熊本学園大の高林秀明教授も「コロナ禍で外部から入るボランティアが少ない中、被災者かどうかを問わず住民同士で交流することが求められる」と指摘している。(川野千尋)
大雨などの災害が発生した際、ボランティアセンターを運営し被災者の支援にあたる社会福祉協議会に宮崎市のレンタカー会社が軽トラックなどの車両を無償で提供する協定が結ばれました。
協定を結んだのは、「トヨタレンタリース宮崎」と宮崎市社会福祉協議会で、14日、宮崎市で締結式が行われました。
協定によりますと、レンタカー会社は、災害が発生した際、ボランティアセンターを立ち上げて被災者の支援にあたる社会福祉協議会に車両を無償で貸し出します。
今回結んだ協定の有効期間は、来年3月末までですが、その後は、特段の理由がない限り自動的に1年ずつ延長されます。
社会福祉協議会によりますと、災害時には浸水被害で使えなくなった家財道具を廃棄場まで運ぶ軽トラックや、ボランティアを運ぶマイクロバスが不足しがちで、レンタカー会社からの申し出で協定の締結にいたったということです。
宮崎市社会福祉協議会の厚地安会長は「被災地での復旧支援には車両の確保が一番大きな課題なだけに、協定は大変ありがたく心強く感じます」と話していました。
また、レンタカー会社の佐土嶋健社長は「車両は資材や人の輸送だけでなく、携帯電話などの電源にも使える給電機能や、“密”になるのを避ける避難場所としても活用できます。災害時の一刻も早い復旧にお役に立てればうれしいです」と話していました。
水害が発生しやすくなる時期を前に、災害で汚れた写真を洗浄し、持ち主に返すための取り組みが行われました。
水害などで被災し、泥で汚れて廃棄される写真を洗浄して持ち主に返す取り組みは、東日本大震災を機に始まり、全国に広まりを見せています。
6月11日神戸市内では、兵庫県や大きな水害を経験した熊本県や岡山県などで写真洗浄を行う団体がフォーラムを開き、およそ40人が参加しました。
会場には2019年の台風19号で被災した栃木県から届けられた写真が用意され、参加者たちは被災者の思い出を噛みしめながら1枚ずつ丁寧に洗浄していました。
主催した団体は、被災地に行かなくてもできる支援で防災意識を高めることにも繋がるとして、この活動を続けていきたいとしています。
2020年の熊本豪雨で被災した家屋の廃材を活用したコーヒーの移動販売車が、被災地を巡っている。コロナ禍で人と人とのつながりが薄れたことを憂えたビジネスマンと、民家の貴重な「古材」が災害ごみになることを悲しんだ被災者の思いがつながった。挽(ひ)きたての香りと味が被災者を癒やして回る。
車の名前は「移動焙煎(ばいせん)車」。サントリーホールディングスが手がける。5日に熊本県八代市坂本町でお披露目した後、8日に球磨村、9日に錦町、10日に人吉市と豪雨の被災地を巡り、無料でコーヒーを振る舞った。挽きたてのコーヒーに、被災者からは「うまかね」「ありがたか」と感謝の声が上がった。
きっかけは20年のコロナ禍だった。
デジタルマーケティング部(東京)に勤務する杉谷憲一さん(56)は、取引先の飲食店が打撃を受ける中、「単に売り上げが減っているだけでなく、良質なコミュニケーションが失われているのでは」と危機感を強めた。
同社が扱っている素材の中で、消費者に直接届けて喜ばれるものとして「コーヒー豆」を思いつき、焙煎機を備えた移動販売車を整備して、外に打って出た。
東京で1号車が順調に稼働しはじめた昨年、釣り好きの杉谷さんがたまたま訪れた八代市坂本町で、溝口隼平さん(40)に出会った。
球磨川の氾濫(はんらん)で…
女性に抱きかかえられているのは大型のネズミ(ラット)。 英スコットランド出身の科学者ドナ・キーン博士(33)は、ラットを訓練して被災地から生存者を救出するプロジェクト、「ヒーローラット」に取り組んで…
2020年7月に熊本県南部を襲った九州豪雨の被災者の移転先となる災害公営住宅(復興住宅)建設に向けた安全祈願祭が7日、熊本県相良村であった。発生からまもなく2年。仮設住宅の退去期限が迫る中、九州豪雨の復興住宅の着工は県内で初めてとなる。
復興住宅は災害で自力での住宅再建が難しい被災者向けに市町村が整備する。被災直後に県などが応急的に無償提供する仮設住宅と異なり、恒久的に暮らせるが、家賃などが発生する。一方、災害救助法などの規定では仮設住宅の入居期間は延長されるケースもあるものの、原則2年とされる。
熊本県内では人吉、八代市など5市町村で221戸の復興住宅の建設が決まっている。相良村では被災者の意向を基に木造平屋2戸を建設。12月に2世帯5人が入居を予定している。吉松啓一・相良村長は「地域の復興のモデルとして、被災者の一日も早い生活再建につながるよう期待している」と述べた。
相良村によると、民間住宅を借り上げる「みなし仮設」などを含む仮設住宅の入居者は24世帯46人(5月末現在)。今回の復興住宅入居者以外は、仮設への入居継続や自力再建を検討しているという。
熊本県のまとめでは、「みなし仮設」などを含む県内の仮設住宅の入居者は21年1月の1814戸・4217人をピークに減少傾向にあり、5月末時点で1216戸・2664人が仮住まいを続けている。【西貴晴】
静岡市清水区興津のNPO法人AYUドリームは4日、演劇を通じて被災者の経験を疑似体験するイベント「防災パーティー」を興津生涯学習交流館で開いた。
イベントは二部制で、前半は同区の七夕豪雨や愛知県の水害を経験した被災者から、災害時の体験を聞き取るパネルディスカッションを実施した。
後半は県舞台芸術センター(SPAC)の俳優奥野晃士さんから「演劇は言葉と体で何かを表現、発信する技術のこと」と指導を受けながら、聞き取った被災時の経験を基にシナリオを作り上げた。
参加者は豪雨を経験する一般家庭を演じながら防災への考えを深めた。
静岡県熱海市伊豆山の土石流災害の被害を拡大させたとされる盛り土の一部が今も残る問題で、崩落の危険性がある土砂への水の流入を防ぐ排水対策工事が完了したことを受け、県は三日、土石流の起点付近の現場を被災者らに公開した。ただ、被災者からは「まだ安心できない」と不安の声が相次いだ。
起点には県の推計で、約二万立方メートルの土砂が残っている。崩落の危険性を否定できず、県は雨水や地下水が土砂に流入するのを防ぐため、地上や地中に排水路を設置した。市は起点付近の市道の側溝を網状のふたに変えるなどした。県は二日に工事完了を発表した。
この日の現場公開には、被災者ら約四十人が参加し、県や市の担当者から排水設備について説明を受けた。被災者は大雨が降り、残っている盛り土がすべて崩れた場合を不安視。県の担当者は既存の砂防ダムでは一部しかせき止めることができないと説明した。ただ、立ち入りが原則禁止される警戒区域には誰も住んでいないことから「人への被害はないと思っている」と述べた。
これに対し、警戒区域内に自宅がある中島秀人さん(53)は「ある程度、安全確保されると思っていたから、すべて受け止められないと聞いて驚いた。できる限りの対策をしてほしい」と要望。他の被災者も「(排水対策で)多少は安心だけど、一度崩れていると安心できない」「警戒区域近くの住民は不安が消えないと思う」などと口にした。(山中正義)
静岡県警は三日、行方不明者の太田和子さんを一斉捜索し、太田さん名義の病院の診察券二枚を見つけた。被災現場付近ではこの日、被災者らが黙とうをささげ、犠牲者の冥福と太田さんの早期発見を祈った。
県警によると、診察券が見つかったのは、土砂を仮置きしている旧市立小嵐中学校。国道135号の逢初(あいぞめ)橋付近にあった土砂をふるいにかけていて、警察官が見つけた。被災時に本人が所持していたかは不明。
発生時刻の午前十時半ごろには、土砂が流れ下った現場を前に、被災者ら十数人が黙とうした。遺族らでつくる被害者の会の太田滋副会長(65)は「ほぼ毎日のように伊豆山に来ているけど、何でこんなふうになったのかといつも思う」と変わらぬ気持ちを吐露した。
現場近くにある「心象めぐみ会共同作業所」の伊勢井勝所長(71)は実家が被災した。「自宅からも仕事場からも窓を開けると現場。怖い気持ちはなくなったけど、亡くなった人がかわいそう」話した。(山中正義、板倉陽佑)
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静岡県熱海市で昨年7月に起きた大規模土石流から11カ月を迎えた3日、県は、盛り土のあった崩落現場付近で今後の大雨への応急対策として設置した排水設備を被災者らに公開した。眼下には、多くの犠牲者や家屋をのみ込み、被害を拡大したとされる盛り土が削り取られ、険しい谷底となった崩落起点が迫り、被災者らは改めて怒りをあらわにした。
「ここに盛り土があったことを事前に知っていたら、(発生時に)避難して亡くなる人はいなかったはずだ」。家屋が全壊した志村信彦さん(41)は崩落起点を眺めながら、盛り土の土地の現旧所有者らが関与を否定し、責任を押し付け合うなかでのやり場のない怒りをぶちまけた。
県によると、土石流の崩落起点付近の盛り土は発生前、約7万立方メートルを超えていたとみられ、大半が土石流で崩落したが、なお約2万立方メートルが残っている。梅雨や台風シーズンが迫る中、県は崩落リスクを抑えるため、地表に排水路を設置したり、地中に排水管を埋設したりして応急対策を進めた。
それでも、この日の応急対策に関する説明会では、「地域住民に再び被害が及ぶことはないのか」などと、残存する盛り土の崩落を心配する声が相次いだ。
弘前市の社会福祉法人弘前豊徳会が運営する介護施設で1月、東日本大震災の被災地福島県いわき市から受け入れていた女性=享年(94)=が亡くなった。埋葬されたのは、弘前市小沢の墓地公園にある合葬墓。同法人が震災発生直後から受け入れを行ってきた被災地の要介護者のうち、死後遺骨の引き取り手がなく、無縁仏として弘前の地で眠るのは4人になった。同法人は、たとえ死後でも故郷に帰してあげたい-と八方手を尽くすが、かなわないケースも。担当者は「弘前で眠る被災地の方がいることを、少しでも心に留めてもらえたら」と、静かに墓に手を合わせる。
墓地公園の一角にある合葬墓で2日、被災地からの受け入れ支援を担当している宮本航大さん(43)によって納骨が行われた。墓前にはヒマワリが手向けられた。「ヒマワリや菜の花など黄色いお花が好きだと話していたのが印象に残っていた」と、福島から花を取り寄せた。
亡くなった女性は南相馬市出身で、長らくいわき市の救護施設で暮らしていた。約3年前に同法人が受け入れ、有料老人ホームに入所。弘前での暮らしにもすぐに慣れ、部屋から見える岩木山に毎日手を合わせていた。冬になると雪にすっぽり隠れてしまう様子に驚いていた様子も、宮本さんの記憶に残っている。女性は今年1月、施設で息を引き取った。
弘前豊徳会で受け入れている要介護者は、介護人材不足が著しい地元施設での受け入れが難しいなど、困難な事情を抱えてるケースが多いことも背景にある。震災から11年が経過した今も、被災地からの受け入れ要請は絶えない。
同施設がこれまで受け入れてきた被災地の要介護者は200人以上。粘り強く帰郷支援を続けているが、その約6割は弘前で最期を迎えている。
【写真説明】亡くなった女性が好きだったヒマワリを手向け、手を合わせる宮本さん
阪神大震災の被災地は3日、発生から10000日目を迎えた。1995年1月17日午前5時46分、兵庫県・淡路島北部を震源(深さ16キロ)とするマグニチュード7・3の揺れは、約25万棟を全半壊し、6434人の命を奪った。多くの火災を発生させ、高速道路を倒し、鉄路をねじ曲げた。
3日朝、神戸・三宮では通勤・通学客らが行き交い、車両が往来し、列車が次々と発着する日常があった。東遊園地(神戸市中央区)では震災犠牲者を追悼する「1・17希望の灯(あか)り」がともり続ける。
立ち寄った上野泰昭さん(79)=同区=は近くで営んでいたレストランが全壊、二重ローンを抱えた。その後、被災者団体を設立して救済運動に奔走した。この朝、震災当日の足取りをたどりながら「一日一日悩みながらも前を向いて歩むしかなくてね」と語った。
当時の被災者らの声を受け、98年に成立した被災者生活再建支援法は、後の災害被災者への「公助」の柱となった。だが拡充が求められている。上野さんは言う。「被災者が長く災害に引きずられることのない社会の備えを次世代への置き土産としたい」【高尾具成】
阪神大震災の被災地は3日、発生から10000日目を迎えた。1995年1月17日午前5時46分、兵庫県・淡路島北部を震源(深さ16キロ)とするマグニチュード7・3の揺れは、約25万棟を全半壊し、6434人の命を奪った。多くの火災を発生させ、高速道路を倒し、鉄路をねじ曲げた。
3日朝、神戸・三宮では通勤・通学客らが行き交い、車両が往来し、列車が次々と発着する日常があった。東遊園地(神戸市中央区)では震災犠牲者を追悼する「1・17希望の灯(あか)り」がともり続ける。
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東京電力福島第1原発事故で自然豊かな地域での生活を奪われたとして、旧緊急時避難準備区域の福島県田村市都路地区の住民ら545人が、国と東電に計約60億円の損害賠償を求めた訴訟の判決で、福島地裁郡山支部(本村洋平裁判長)は2日、東電に賠償を命じた。国への訴えは退けた。
訴状によると、原告側は山菜採りなどの楽しみや住民同士のつながりが失われ、精神的損害を受けたと主張。これまでの東電の慰謝料では不十分として1人当たり1100万円を請求した。
東電は同区域の住民に月額10万円の慰謝料を支払っていたが、12年8月で打ち切った。
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