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Wednesday, March 30, 2022

「石川県原爆被災者友の会」閉会 平和運動に取り組む2人の思い - 毎日新聞 - 毎日新聞

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大田健志さん 拡大
大田健志さん

 石川県内の被爆者でつくる団体「石川県原爆被災者友の会」(金沢市)が高齢化が進む中、31日で閉会する。戦後77年、戦争を知らない世代が多数を占める中、原爆の悲惨さをどう伝えていくか。平和運動に取り組む県内の2人に取材した。【井手千夏】

 大田健志さん「試行錯誤しながら」

  被爆者からの聞き取りをもとにした紙芝居作りに取り組む県保険医協会職員の大田健志さん(29)=金沢市=は、被爆者の祖父母がいるわけでも、被爆地出身でもない。周囲は50歳以上が多い。それでも「我々は被爆者と触れ合える最後の世代」と平和運動に奮闘する。

 大田さんが「核」に興味を持ったのは金沢大2年だった2012年。東日本大震災による東京電力福島第1原発事故(11年3月)の避難者との交流会に参加し、餅つきや木工作りに笑顔で取り組む裏で、故郷を追われて苦しむ人々について考えさせられた。

 大学卒業後、保険医協会が事務局を務める「石川反核医師の会」の担当になった。仕事を通して被爆者と交流する中、県原爆被災者友の会会長の西本多美子さん=金沢市=と出会った。自身の被爆体験を熱弁する姿を見て、いまだに健康被害に苦しむ人がいることに気づかされた。それまで自分にとって教科書で読んだ出来事に過ぎなかった原爆が、自分にとっても大事な問題だと感じた。

 その後、多くの平和活動に携わった。日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の顧問や県原爆被災者友の会初代会長を務め、2020年9月に91歳で亡くなった被爆者、岩佐幹三(みきそう)さんの体験を基にした紙芝居の制作メンバーとして参加したり、被爆医師らを追った映画「ヒロシマ、そしてフクシマ」の上映会を企画したりした。

 21年春ごろからは「石川県の被爆者の生の声を残そう」と、西本さんの体験を紙芝居にしようと取り組んでいる。月1回、金沢市の会議室に20~80代の男女約10人が集まり、西本さんが被爆した時の話や金沢に移り住んでからの話を毎回2時間ほど聞いた。現在は原案を作り始め、今後、絵を描く担当者を決めるなどすりあわせをしていく。

 葛藤がないわけではない。原爆について伝えるためにどれだけ頑張っても、同年代の戦争を知らない世代に本当に届いているのか。自分がやる活動に意味があるのか常に不安がつきまとう。

 若い人に伝えるために何が最善の方法なのか答えはまだ見つかっていない。それでも、インスタグラムや動画投稿アプリ「TikTok(ティックトック)」といったSNSを駆使し、紙芝居や被爆証言を発信できないか考える。

 全国各地で被爆者団体の閉会が続く中、市民にとって被爆者が遠い存在になってしまうのではないかとの懸念はあるが、大田さんは「自分ができることを試行錯誤しながらぼちぼちとやるしかない。日常と、原爆という非日常の垣根をどうなくすか考えていきたい」と語った。

池田治夫さん 拡大
池田治夫さん

池田治夫さん「みんなが声挙げて」

 白山市の池田治夫さん(67)は、2014年7月に発足した「県原爆被災者友の会二世部会」の世話人をしている。県内の被爆者の証言をまとめたDVDの編集に携わったり、日本原水爆被害者団体協議会が出す被団協新聞石川版の制作に関わったりして、友の会を支える活動に関わってきた。

 父昭さんは原爆投下時、海軍の1等機関兵として広島県大竹市で訓練にあたっており、直後に救援のために広島市内に入って被爆した。池田さんが2歳の時に昭さんは亡くなり、被爆体験は聞いたことがなかった。

 進学した金沢大で政治学を教えていた岩佐幹三さん(県原爆被災者友の会初代会長)と出会い、被爆者の肉声を初めて聞いた。岩佐さんはある初夏の日、「きょうは講義はしません」と自身の被爆体験について淡々と語り始めた。倒壊した家の下敷きになった母親を置いて逃げ、見殺しにしたと自らを責める話を前に「原爆は恐ろしい」と初めて身近に感じた。

 この経験をきっかけに、岩佐さんの自宅で酒を飲みながら被爆体験を聞いたり、講演会を手伝ったりした。大学卒業後は医療機関職員として、原水爆禁止を求める署名活動や平和行進に参加。60歳の定年退職を前に友の会に携わり、東日本大震災による福島第1原発事故を契機に「2世としても声を上げるのが大事だ」と14年7月に二世部会を発足した。

 県内の被爆者の証言をまとめたDVD「この空を見上げて~石川・被爆者たちの証言」(発行17年6月)や、1986年に起きたチェルノブイリ原発事故についての学習会に関わりながら、ある疑問が頭の中に浮かんできた。「父がなぜ家族にも被爆体験を話さなかったのか」

 理由を探そうと父の日記を見たが戦争については「実に残酷であり悲惨なものだ」という一文のみ。もやもやする中、DVDを制作する過程で、投下直後に広島市内で救護に当たった男性の話を聞き、腑(ふ)に落ちた。「話せなかったんだ。あまりにも残酷すぎて話せる内容ではなかったと納得した」。ようやく父の思いに至った気がした。

 友の会がなくなっても、被爆者の証言を次世代に引き継いでいくために証言ビデオを活用したり、指人形で芝居したりして、二世部会としてできることを模索し続けたい。核については学習会や講演会を継続してやっていくつもりだ。

 池田さんはロシアのウクライナ侵攻にも触れ「歴史が逆戻りしてしまった」と憤り、「(友の会が閉会しても)やらなければいけないことは一緒。みんなが核兵器禁止の声を挙げていかないといけない」と語る。

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南相馬市 6強地震で被災者の支援に8.8億円の補正予算へ|NHK 福島県のニュース - nhk.or.jp

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福島県南相馬市は、震度6強の激しい揺れを観測した今月16日の地震で壊れた住宅などの修繕費用の補助や災害廃棄物の処理などのため、8億8000万円余りの補正予算を組む方針を固めました。

福島県沖を震源とする今月16日の地震で震度6強の揺れを観測した南相馬市では、多くの住宅が被害を受け、り災証明の申請が1800件余りに上っていますが、ほとんどが災害救助法の対象とならない一部損壊と見られています。

このため市は、自宅などが一部損壊の被害を受けた被災者に独自の支援策をとるため、総額8億8000万円余りの補正予算を組む方針を固めました。

このうち、▼市の調査で一部損壊と判定され、5万円以上かかる住宅や塀などの修繕工事を行った世帯への補助事業に1億6000万円、▼準半壊以上と判定され、トイレや台所など生活に欠かせない部分の応急修理を行った世帯への補助事業におよそ1億2000万円を計上しました。

また、▼災害廃棄物の処理に4億2000万円余り、▼ため池などの農業施設や道路、公園などの復旧事業に7450万円を計上しました。

この補正予算案は、30日開かれる臨時議会に提出され、可決される見通しです。

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Tuesday, March 29, 2022

2年ぶりチャペルでミサ、震災被災者や平和へ祈り…南山女子部 - 読売新聞オンライン

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 南山高等・中学校女子部(名古屋市)は3月10日、チャペルでミサを行いました。コロナ禍の中で約2年ぶりです。生徒たちは神父のメッセージに耳を傾け、東日本大震災の被災者や、戦争などで苦しむ世界の人々へ祈りを捧げました。詳細は こちら (トップページの「南山高等・中学校女子部 Facebookページ」から入り、3月11日アップの関連記事を参照してください)。

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Monday, March 28, 2022

被災者支援 実態よく見て/市町村との連携 激甚指定を要請/宮城県に共産党 - しんぶん赤旗

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2022年3月29日(火)

市町村との連携 激甚指定を要請

宮城県に共産党

写真

(写真)千葉副部長(右端)に要望書を手渡す、ふなやま対策本部長(その左)、三浦県議団長(左端)と県議団=28日、宮城県庁

 日本共産党宮城県委員会と県議団(5人)は28日、宮城県の村井嘉浩知事に対し、福島県沖地震被害(16日)に関する緊急要望をしました。ふなやま由美党県対策本部長が、県復興・危機管理部の千葉伸副部長に要望書を手渡しました。

 三浦一敏県議団長があいさつし、福島かずえ県議が申し入れの趣旨を説明。▽国に激甚災害指定を行うよう申し入れる▽災害救助法に基づく支援策を市町村が遅滞なく実施できるよう連携と情報の周知を強める▽国の支援制度が適用されない場合は県独自に支援制度をつくる▽ボランティア団体や被災した医療機関へ支援する―ことなどを求めました。

 ふなやま氏が、白石市や角田市など被災地を歩いた調査をもとに「外観は無事でも中に入って調べると天井や壁の崩落、建物のゆがみなどが見られる住居がいくつもありました。東日本大震災に昨年の地震と、繰り返し被災しています。外観だけでなく実態をよく調査して、損害を判定してください」と語りました。

 千葉副部長は「いずれの項目も貴重な提言です。要望にあるとおり市町村としっかり連携しながら被害状況を把握し、復旧復興に努めていきます」と応じました。



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Wednesday, March 23, 2022

学校給食センター 防災や被災者支援の拠点に 各地で動き - 朝日新聞デジタル

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 学校に給食を作って提供する給食センターを、防災や被災者支援の拠点として活用しようという動きが広がりつつある。新設する際に、炊き出し機能や住民が一時退避できる機能を備えるなどしている。

熊本地震の教訓から 給食センターの機能強化

 震度7の揺れが襲った2016年4月の熊本地震で、熊本県益城町の学校給食センターでは、倒れたガスボンベのガスが噴き出していた。食器の乾燥機や保管庫が倒れ、床はひび割れた。ボイラーも壊れ、上下水道管も断裂した。

 町職員で、当時、センター所長だった内村康成さんが駆けつけると、自衛隊員に「炊き出しに給食センターを使えないか」と尋ねられた。しかし「危険で中に入れなかった。使えなかったのが惜しまれた」と振り返る。

 地震前から、老朽化に伴う建…

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Tuesday, March 22, 2022

(声)また被災者…頑張れと言えない:朝日新聞デジタル - 朝日新聞デジタル

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 主婦 渡辺真弓(福島県 56)

 また被災者になってしまいました。あの震災から台風被害、そして16日の今回の地震……。何度リフォームしなければならないのか? 片付けをしている最中も余震で怖い思いをしています。同じ自治体でも場所や建物の築年数により被害は異なりますが、怖い思いをしたのは皆同じ。今回は…

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Monday, March 21, 2022

深浦町、大震災被災者と交流今も - 47NEWS

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 東日本大震災発生から11年。かつて青森県深浦町は、太平洋沿岸の被災者を、町内の宿泊施設に無償で受け入れた。1983(昭和58)年に日本海中部地震を経験した同町にとって、津波の被害は人ごとではなかった ...

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Friday, March 18, 2022

続く余震 国道崩れ/宮城・丸森町 台風被災者仮設で断水 - しんぶん赤旗

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2022年3月19日(土)

宮城・丸森町 台風被災者仮設で断水

写真

(写真)のり面が崩落した現場=18日、宮城県丸森町(山本明徳町議提供)

 16日に発生した福島県沖地震で震度5強の揺れに見まわれた宮城県丸森町。日本共産党の山本明徳町議は「激しい揺れで、タンスの転倒防止の突っ張り棒が二つとも外れました。近くの住宅では大きな門柱が倒れていた」と語ります。

 山本町議は17、18の両日、町内の被害状況を調査しました。「国道ののり面が3分の1ほど崩れており、片側通行になっていました」。町民からは、罹災(りさい)証明の手続きの相談や家の修理代を心配する声が寄せられたといいます。

 丸森町は2019年の台風19号による河川氾濫で被災し、町内に現在5カ所の応急仮設住宅団地があります。「地震で、その団地の一つで上下水道が止まり、給水車や仮設トイレが設置されました」

 町内では漏水が11カ所、一時1000戸で停電し、17日午前10時までに復旧しました。山本さんは「余震はずっと続いています。18日午前も4回ほど体に感じる余震があり、住民は不安を感じながら、家の中の片づけに追われています。1人暮らしの高齢者もおり支援が必要だ」と話します。



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Thursday, March 17, 2022

宮城・福島で被災者支援続く 東北新幹線、早期復旧目指す - 東京新聞

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 陸上自衛隊による給水を利用する住民=18日午前9時5分、宮城県栗原市

 陸上自衛隊による給水を利用する住民=18日午前9時5分、宮城県栗原市

 東北地方を中心とする16日の地震で最大震度6強を観測した宮城、福島両県では18日、悪天候が予想される中、陸上自衛隊による給水など、被災者が日常生活を取り戻すための支援が続けられた。車両が脱線した東北新幹線でも復旧作業を継続。早期再開を目指した。

 陸自は宮城県栗原市などで給水支援。約1500戸が断水した瀬峰地区では、1トンの水を積んだタンクトレーラー1台が到着し、午前6時に自衛隊員3人が給水場を開設した。午前8時半には、給水を知らせる市の防災無線が鳴り響いた。福島県相馬市では大部分で断水が続き、陸自などが公民館や公園、小学校などで給水活動をする用意をした。

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【速報】官邸に関係閣僚参集 岸田総理が被災者の救命救助など指示 - テレビ朝日

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 16日午後11時半すぎ、宮城県と福島県で最大震度6強の地震がありました。震源は福島県沖で、震源の深さは57キロ、地震の規模はマグニチュード7.4と推定されます。

 国会記者会館から報告です。

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地震被災者への配慮、金融機関に要請 財務省・日銀 - 日本経済新聞

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地震被災者への配慮、金融機関に要請 財務省・日銀  日本経済新聞
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Wednesday, March 16, 2022

「激しい揺れで目が覚めた」大震災の被災者、不安な夜 - 産経ニュース

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JR仙台駅のタクシー乗り場で列をなす人たち=17日午前0時22分
JR仙台駅のタクシー乗り場で列をなす人たち=17日午前0時22分

16日夜、宮城県と福島県を最大震度6強の地震が襲った。緊急地震速報が数分おきに鳴り響き、津波注意報も発令された。「激しい揺れに目が覚めた」「戸棚の中がグチャグチャになった」。11年前に東日本大震災を経験した被災者も多く、恐怖で声を震わせながら不安な一夜を過ごした。

宮城

震度6弱を観測した宮城県岩沼市。残間祥夫さん(62)は自宅で就寝中に激しい揺れを感じ、目を覚ました。約30秒間揺れた後、様子を確認しようと立ち上がると、間もなく2回目の強い揺れが来た。緊急地震速報が鳴り、さらに約1分間、大きな縦揺れと横揺れが続いた。

家具などにしがみついていないと立っていられず、机の上の物が床に落ち、散乱した。「瞬間的な揺れは震災よりも強かった。時間が短く、揺れを強くしたような感じ」と残間さん。津波注意報が出たが、自宅で待機するという。

仙台市内は震度5強の揺れに見舞われた。自宅で就寝の準備をしていた無職女性(71)は最初の揺れで「少し強いな」と警戒したという。その後、緊急地震速報を知らせるアラームが鳴り、さらに大きな揺れが襲った。立ち上がれず、室内に座って揺れが収まるまで耐えた。室内を確認すると仏壇の茶碗などが倒れ、水が飛び散っていたという。

女性は1人暮らしで、近所にも高齢の独居世帯が増えている。「近くに親戚も住んでおらず、いざというときには人を頼れない」と声を震わせた。

仙台市青葉区の飲食店店長、佐藤邦治さん(48)は地震発生時、店の片づけ中だった。棚の皿や酒瓶は大半が割れた。「家族の無事を確認でき、ひとまず安心したが、明日は営業できない。緊急地震速報が遅く、揺れがきてから警報が鳴った」と首を傾げた。

東日本大震災で巨大津波が襲った宮城県女川町内には避難を呼びかける町内放送が流れた。飲食店を営む奥津圭祐さん(40)の自宅は高台にあるが、「地震のことは人一倍頭に入っているが、夜中だったので驚いた」と話した。

福島

震度6弱を観測した福島県飯舘村の男性(71)は就寝中に揺れを感じ、飛び起きた。テレビをつけようとして、さらに大きな揺れに襲われ、倒れそうなテレビを必死に抑えた。「縦揺れも横揺れもあり、東日本大震災の時の揺れを感じた」と話した。

揺れは1分ほど続き、室内を見渡すと、神棚の供え物や花瓶、本などが床に散乱していた。「停電にはなっていないが、これだけ揺れると津波や原発が心配だ」と不安を口にした。

福島市では震度5強を観測。元高校教員の赤塚公生さん(73)も「天井裏を動物が走っているような強い揺れ」に身構えた。震災が頭をよぎったが、本棚の書籍が数冊落ちる程度の被害で済んだ。「11年前は家が壊れると思うほどの揺れだったが、今回は時間も短く、被害も少なかった」と話した。

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Monday, March 14, 2022

心のケアに「節目」はない 被災者の高齢化、孤立も 相談業務11年 - 朝日新聞デジタル

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 宮城県石巻市などで、東日本大震災の被災者の心の健康に寄り添ってきた一般社団法人「震災こころのケア・ネットワークみやぎ」。震災から11年で見えてきた課題を、代表理事で精神科医の原敬造さん(73)に聞いた。

 ――相談内容はどのようなものでしょうか

 支援拠点「からころステーション」には今も月に約1千件の相談があり、約6割は不安や恐怖の感情を抱えています。震災後に石巻市に入り、経営するクリニックがある仙台から通いました。これほどの災害に遭遇した人たちが抱えるであろうPTSD(心的外傷後ストレス障害)やうつなどに継続した支援が必要と感じ、2011年6月に法人を設立し活動してきました。石巻市や宮城県の委託を受け主に石巻、東松島市女川町の方の相談支援をしています。

悩み抱える人の元へ訪問

 ――支援の特徴は

 心の悩みは自分からは相談しづらいし、精神科への抵抗がある人もいる。悩む人のところへこちらから積極的に訪問し、電話や支援窓口での相談もしています。日本精神神経科診療所協会などを通じ、知り合いの医師、看護師、ケースワーカーに応援を頼み、これまでにのべ6千人以上が支援活動に入ってくれたことで続けてこられました。ただ、コロナ禍以降は地元のスタッフで何とか回しています。

 ――震災から11年が過ぎ、必要と感じることは

時が経つに連れ、忍び寄る孤独

 支援を必要とする人も時が経…

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Saturday, March 12, 2022

東日本大震災被災者への家賃補助 兵庫県の全自治体で終了へ |NHK 関西のニュース - nhk.or.jp

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東日本大震災で被災し、避難を続けている人に対する家賃補助を独自に続けてきた兵庫県丹波篠山市が来年度で事業を終了することがわかりました。
被災者の支援を行っている団体によりますと、これで、兵庫県内すべての自治体でこうした事業が終了することになるということです。

ことしで東日本大震災から11年になりますが、兵庫県内には、今も福島、宮城、岩手の3県などから600人余りが避難を続けています。
被災して県外へ避難する人に対する国などの家賃補助事業は5年前に終了しましたが、丹波篠山市は市民から寄付を募るなどして独自に支援を続けてきました。
しかし、最近は寄付が激減し、基金の残高が86万円あまりとなったことから、来年度末で終了することを決め、対象となっている3世帯に伝えていたことがわかりました。
被災者の支援を続けてきた団体によりますと、国の事業が終了したあと、県内では、宝塚市も1年間、独自に家賃補助を行いましたが、現在まで続いていたのは丹波篠山市だけで、これで県内すべての自治体で終了することになるということです。
被災者の支援活動を行っている古部真由美さんは「ここまで事業が続いたのは被災者が避難先の自治体と市民に長い間支えられた大きな成果で、感謝の気持ちでいっぱいです。ただ復興のスピードは人それぞれなので、今後も声がけなどさりげないサポートをいただけると心の復興にもつながると思います」と話しています。

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Friday, March 11, 2022

岸田首相 “震災被災者の心のケアやなりわいの復興を支援” - nhk.or.jp

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東日本大震災の発生から11年が経過するのに合わせて岸田総理大臣は12日、岩手県と宮城県の被災地を訪れ、引き続き自治体と連携しながら被災者の心のケアやなりわいの復興を支援していく考えを示しました。

東日本大震災の発生から11年が経過するのに合わせて東北の被災地を訪れた岸田総理大臣は12日午前、岩手県陸前高田市の追悼祈念施設で献花台に花を手向け黙とうをささげました。

そして、岩手県の達増知事や陸前高田市の戸羽市長と復興の課題について意見を交わし、災害公営住宅の入居者の高齢化や孤立化が進んでいることから被災者の心のケアへの支援に一層取り組むよう要望を受けました。

続いて宮城県石巻市の復興祈念公園を訪れ献花と黙とうを行ったあと、宮城県の遠藤副知事や石巻市の齋藤市長から新型コロナの影響で集団移転した住民のコミュニティーの形成が遅れている状況などについて説明を受けました。

このあと岸田総理大臣は記者団に対し「震災と原発事故の貴重な教訓を後世に継承し防災や減災に生かしていくことは私たちの責務だ。今後も被災地の自治体とも連携しながら努力していく」と述べました。

そのうえで「震災から11年を迎える中、引き続き心のケアや産業、なりわいの復興といったソフト面での取り組みを着実に進めていかなければならない。生活再建のステージに応じて切れ目なく支援するという考え方に基づき自治体の取り組みを後押ししたい」と述べました。

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「忘れることは楽だけど」 あれから11年、被災者たちは [核といのちを考える] - 朝日新聞デジタル

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 東日本大震災から11年がたった11日、広島県内でも各地で犠牲者への祈りが捧げられた。この日を広島で迎えた被災者たちは、「あの日」からの体験を分かち合い、被爆地・広島から「忘れない」とのメッセージが発信された。

 この日、原爆ドーム元安川を挟んだ対岸の平和記念公園親水テラスでは、150本のキャンドルで「3・11」の文字がかたどられた。被災地支援にかかわった人たちによる実行委員会が企画し、地震発生時刻の午後2時46分に黙禱(もくとう)が捧げられた。

 公園内のレストハウスではボランティア団体「震災復興子ども支援」が主催したイベントがあり、岩手県出身横浜市在住の菅原忍さん(47)が体験を語った。

 菅原さんの母、由美子さん(当時64)は、大槌町で美容院を営んでいた。震災直後、連絡が取れなくなり、当時、神奈川県横須賀市に住んでいた菅原さんは毎月のように大槌町へ通って捜した。美容院や近くの実家は津波に流され、跡形もなかった。由美子さんは今も行方不明のままだ。

 菅原さんは当時を振り返り、「がれきがだんだんと片付いていくにつれ、母が見つかる可能性がなくなる悲しみがあった」と語った。11年がたち、「忘れることは楽だけど、覚えていないといけない。今も見つかる可能性があると願っている」と話した。

 広島市西区では、被災地から県内に避難した人たちでつくる「ひろしま避難者の会『アスチカ』」の代表、三浦綾さん(49)らのトークイベントがあった。

 「目をつむれば、いつも思い浮かびます。建物が崩れ、全てが変わってしまった街の様子です」。福島県いわき市で被災した三浦さん。原発事故による放射線被害が心配で、小学生や幼稚園児だった3人の娘だけ飛行機に乗せ、実家がある広島市安芸区に避難させた。夫はいわき市に残り、三浦さんは毎月1回、広島市と行き来する生活を送る。

 あれから11年。前を向いて動き続けられる理由は、娘たちの成長だという。長女の莉衣菜さん(22)は昨春に就職。山口大3年の次女、友菜さん(21)は小学校教員を目指して勉強中で、この日のイベントでは「震災があったから出会えた人もいる。周りの人を幸せにする母のようになりたい」と語った。

 三浦さんは最後にこう締めくくった。「東北から離れた場所でも生きて、頑張っている人がいる。そんな人たちのことを忘れないでほしい」

 今年の「3・11」はウクライナにロシアが侵攻する中で迎えた。災害と戦争の違いはあるが、奪われる命や核の脅威を目の当たりにし、被災地だけではなくウクライナにも思いを寄せる人たちがいた。

 この日、原爆ドーム対岸の壁に掲げられたのは、高さ3・5メートル、幅7・8メートルの大きな絵。2017年にウクライナの子どもたちが制作したもので世界の5大陸の様子が色とりどりに描かれる。「3・11」に合わせ、ウクライナのことも考えてもらおうと展示された。18年に現地を訪れた造形作家の加藤宇章さん(61)は、出会った子どもたちの笑顔が浮かぶ。「災害でも戦争でも亡くなった人は同じように苦しい思いをしたと思う。絵を通して共有できたら」と話した。(三宅梨紗子、福冨旅史、岡田将平)

空から見た被災地 11年後の現在地

東日本大震災から11年。特に甚大な被害を受けた東北の被災3県はどう変化したのでしょうか。それぞれの場所の2011年と2022年の様子を、動画や写真で見比べられます。

【動画】空から見た被災地 11年後の現在地

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「最善を望み、最悪に備えよ」 被災者支援のシステム 開発者の思い - 朝日新聞デジタル

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 災害時に住民の被災状況などを一元管理する自治体のオンラインシステムがある。生みの親は、阪神・淡路大震災の被災自治体の職員だ。東日本大震災をうけて注目度も上がり、国も普及を急ぐ。だが導入する自治体は全国の3分の1ほどで、様式の異なるシステムの乱立など課題もある。

 このシステムは、罹災(りさい)証明書の発行や支援物資の供給状況などの情報をオンライン上で管理する仕組みだ。給付金の素早い支払いや、二重払い防止にもつながる。総務省によると全国1741市区町村のうち、導入しているのは約3分の1だ。

 基になるシステムをつくったのは、兵庫県西宮市情報システム課の元職員吉田稔さん(74)。1995年の阪神・淡路大震災の時に立ち上げた。いまは国と自治体が共同運営する地方公共団体情報システム機構(J―LIS)内の「被災者支援システム全国サポートセンター」のセンター長を務める。

 被災自治体のシステム運営の支援もする。東日本大震災では、約20の被災自治体からの問い合わせに対応。ほとんどの自治体ではシステムが未整備だったため、導入から被災者情報の管理までを支援した。

 1995年1月17日の朝、震度7のゆれが西宮市を襲った。吉田さんの自宅も全壊。家族を避難所に残し、役所へ向かった。課の部屋では書類が散乱し、ホストコンピューターは2台とも倒れていた。

罹災証明発行に7時間 市民から罵声も

 西宮市では震災で1100人…

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甚大な被害でも自制心を失わない被災者に「非常に感銘」 震災直後に救援に駆け付けた米国人のバートさん - 東京新聞

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 【ワシントン=吉田通夫】東日本大震災から、11日で11年。米南部フロリダ州ウィンターパークに住むバート・ジョンソンさん(69)は震災の数日後、外国人らが次々と日本から逃げ出す中、支援活動のため日本に入った。甚大な被害の中でも自制心を失わない被災者に感銘を受けたといい、震災を振り返るたびに「揺るがない精神の力が大切だ」と感じている。

オンラインで東日本大震災後の救援活動を振り返るバート・ジョンソンさん

オンラインで東日本大震災後の救援活動を振り返るバート・ジョンソンさん

 キリスト教の宣教プログラムで1997年に来日して以来、妻ともども日本が気に入り、毎年来日するようになっていたというバートさん。「あの日は朝早く、ジムのルームランナーで走りながらテレビをつけたんだ」。すると、信じられない光景が飛び込んできた。津波で何もかもが流されていく、あの光景。「すぐにジムを出て、日本の友人に電話したよ」

 電話口のダン・アイバーソンさんは、千葉県の教会勤め。現地の米国人らで被災地への支援チームを編成しようとしていた。すぐに参加を決め、3、4日後には日本行きの飛行機に飛び乗った。すでに福島第一原発が危機的状況に陥っていたので、ガイガーカウンター7基を用意し、がらがらの機内で準備した。東京から出発する便は、国外に逃げる人々で満席だった。

2011年3月25日、被災地で住宅の補修を手伝う支援チームのメンバーたち=ドン・エランドさん撮影(バート・ジョンソンさん提供)

2011年3月25日、被災地で住宅の補修を手伝う支援チームのメンバーたち=ドン・エランドさん撮影(バート・ジョンソンさん提供)

 支援チームが用意したワゴン車3台に毛布や食料、燃料などを積み込み、まずは仙台市へ向かった。道は寸断されていたが、先遣隊が裏道を調べていた。現地の教会を拠点にしながら、原発近くの町や宮城県石巻市など、被災地に手分けして支援物資を配った。数日後にはほかの支援物資も届き始めたため、津波に襲われた家屋から泥を掃き出したり、破損した屋根に防水シートをかぶせるといった支援に切り替えたという。

 余震も放射性物質も怖かったが、それ以上に、何かをしてあげたかった。家を失い、愛する人を失った人の話を聞き、泣いた。電気もガスも通っていない泥まみれの家で、カセットこんろでお湯を沸かしてお茶を入れてくれた被災者に「恐ろしい混乱に立ち向かう日本人の精神力はすごい」と感じた。

2011年3月25日、津波の被害に遭った住宅地=ドン・エランドさん撮影(バート・ジョンソンさん提供)

2011年3月25日、津波の被害に遭った住宅地=ドン・エランドさん撮影(バート・ジョンソンさん提供)

 想像を絶する被害の大きさは「どんな言葉を使ったら良いのかも分からない」。それでも、冷静に努め、礼儀正しく、自制心を失わなかった被災者に「非常に感銘を受けた」と言う。

 「いくら最高のものを築き上げても、形あるものは一瞬にして破壊されることがある。だから、揺るぎない精神の力に希望を託さなければいけない」。今までもそう思ってきたが、震災を振り返るたび、思いを新たにする。

 滞在したのは10日ほど。「私がしたことは、ほんの少し。本当にすごいのは、ずっと復興を支援し続けている人たちだ」と語った。

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Thursday, March 10, 2022

福島で進む「被災者のリタイア」に見た根深い危機 | 震災と復興 - 東洋経済オンライン

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廃炉作業が続く東京電力の福島第一原子力発電所(代表撮影)

東日本大震災から11年が経つ。10年ひと昔、とはよく言ったもので、東京電力福島第一原子力発電所の事故と発生直後から向き合ってきた現場にいま、世代交代の波が静かに押し寄せている。

「去年の11月で終わったんだぁ。年金も少しばかぁもらって、いまは働かないでいる」

聞き覚えのある福島弁が耳に響いたとき、それが作業現場からの離職であり、同時に原発の呪縛から解き放たれたことはすぐにわかった。

彼と私が出会ったのは、東北の太平洋沿岸を大津波が襲った数日後のことだ。当時は原発が制御不能に陥り、原子力建屋が相次いで水素爆発を起こすなど、予断を許さない状況が続いていた。

私も避難指示の出ていた原発から20キロ圏内に入るなどして、事故発生直後の周辺取材を重ねていた。そこで地震発生当時に下請けの作業員として福島第一原発の中にいた彼を知った。

地震のときは定期点検中のタービン建屋にいた

58歳だった彼は、定期点検中だった5号機のタービン建屋の中にいた。突然の揺れは2分ほど続いた。揺れはじめと同時に、上から埃が舞い落ちてきた。あたりが真っ白になったと思った次の瞬間、建屋内の電灯が一斉に切れて非常灯がつく。揺れが収まっても、あたりは真っ暗で何も見えない。建屋内にいた下請けや孫請けの作業員30人ほどが懐中電灯で互いの無事を確認し合う。

屋外に出ると、幅10センチほどの地割れが走っていた。地面が隆起しているところ、なかったはずのところに段差ができているところもあった。

作業員はすべてそれぞれの施設から出て、敷地内にあるグラウンドに向かう。そこで部署ごとに点呼をとって、そのまま解散となった。

「月夜だったんだ」

それからのことを語った彼の言葉は、いまでもよく覚えている。

「電気もつかずに真っ暗だったんだけど、月が道を照らしてたんだ」

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大切な人が被災したら...「自分にできることが見つかる本」は、こうして生まれた - ハフポスト日本版

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地震、台風、豪雨...。日常が奪われる災害はいつ、どこでも起こり得る。

自分にとって大切な人が被災したとき、何ができるのだろうか。

被災者支援に取り組んだ人たちの体験やメッセージを集めた冊子『大切な人が被災したときに、自分にできることが見つかる本』(以下、『見つかる本』)に、そのヒントが記されている。

(※この記事には、豪雨災害の被災地の写真が含まれています)

コロナ禍で起きた豪雨災害

2020年7月の熊本豪雨では、死者67人、行方不明者2人、負傷者50人という人的被害が出た。全壊または半壊した住家は4600棟を超えた(2022年3月3日時点、熊本県危機管理防災課の統計より)。

過去の災害と異なるのは、「コロナ禍で発生した」ことだった。

当時、新型コロナの感染拡大を防ぐため、現地の災害ボランティアセンターはボランティアを県内在住者に限定。人手不足に直面し、その上感染拡大への不安を抱える中、被災者支援は手探りの状況だった。

「被災地にいた人たちの経験は、熊本にいた人だけが知っていて良い情報なんだろうか」

『見つかる本』を制作した「BRIDGE KUMAMOTO」理事の村上直子さんは、冊子の形でボランティアらの声をまとめようと考えた理由を振り返る。

熊本豪雨の被災地で散乱する生活雑貨
熊本豪雨の被災地で散乱する生活雑貨

BRIDGE KUMAMOTO提供

「県外の方から、『現地に行きたいけどコロナで行けないから、何かできることない?』と連絡をもらうたびに、支援者の体験談を集めて発信したいという思いが強くなりました」(村上さん)

BRIDGE KUMAMOTOは2016年、熊本地震をきっかけに立ち上がった。

メンバーはクリエイティブディレクター、ドローンパイロット、ビデオグラファーなど様々で、デザインや表現活動を通じた災害復興支援に取り組んでいる。

コロナ禍の被災地で、支援者たちはどんな体験をしたのか?

BRIDGE KUMAMOTOは、熊本豪雨のボランティア221人にアンケートを実施。属性別では会社員36%、会社経営・自営業30%、学生11%、アルバイト・パート7%だった。

84%が「土砂の撤去」をしたと答えた。

困ったことを尋ねる質問では「道路渋滞」20%、「水・食事の確保」18%、「熱中症」17%の順で多く、女性ではトイレの問題が大変だったという声も多かったという。

「休憩中でもマスク着用を徹底することで熱中症の不安が増した」「(ボランティアの)経験者が現場に入れず、人手不足で作業が遅れた」といった、コロナ禍の災害で特徴的な課題も寄せられた。

『大切な人が被災したときに、自分にできることが見つかる本』
『大切な人が被災したときに、自分にできることが見つかる本』

BRIDGE KUMAMOTO提供

アンケートでは、ボランティアで滞在中の昼食について、回答者のうち約3割が「炊き出し・現地の好意で差し入れ」があった、と答えている。

BRIDGE KUMAMOTO設立メンバーの稲田悠樹さんは、「『現地の人から食事をもらうのはけしからん』という意見をよく聞きますが、実際には多くのボランティアが地元の人から好意で受け取っています。一概に悪ではないと思うんです。災害時に伝わる情報と現場のリアルでは乖離している部分もあることを、アンケートをきっかけに考えてもらえたら」と話す。

離れていても、できることがある

被災者支援に当たったのは、現地にいる人だけではなかった。

『見つかる本』には、遠方にいても自分にできることを探し、動いた人の手記も掲載されている。

寄付金集めのため情報発信をした人、被災者に向けた応援メッセージを代読・録音して公開するプロジェクトに参加した人、東北の震災の経験を生かし、現地の支援団体へのノウハウ共有や物資輸送といった後方支援に奔走した人...。

稲田さんは、「被災地で体を動かして泥をかくこと以外にも、被災した人のためにできることはたくさんあります」と呼びかける。

東京・新宿で開かれた熊本豪雨の写真展で、来場者が「自分にできること」を写真に書いて壁に貼る参加型の企画もあった
東京・新宿で開かれた熊本豪雨の写真展で、来場者が「自分にできること」を写真に書いて壁に貼る参加型の企画もあった

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ボランティアのアンケート結果や手記のほか、全国から2100万円以上の寄付を集めたプロジェクトをめぐる対談インタビューも『見つかる本』に収録した。

「コロナだけでなく、これまで人間が経験したことのないようなことが今後起きる可能性はあります」と村上さん。「それでも、コロナ × 災害のような事態を乗り越える力が人にはある。『大切な人が被災したときに、自分にできることが見つかる本』から、そんな希望を受け取ってもらえたらうれしい」と願う。

アンケート結果の詳細は、インフォグラフィックの動画にしてYouTubeで配信している

『見つかる本』の全編は、専用サイトから閲覧できる

BRIDGE KUMAMOTOのメンバーたち。右端が村上直子さん、右から3番目が稲田悠樹さん
BRIDGE KUMAMOTOのメンバーたち。右端が村上直子さん、右から3番目が稲田悠樹さん

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被災者と言えぬ立場、ありのまま 盛岡出身の作家・くどうれいんさん - 毎日新聞 - 毎日新聞

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盛岡市在住の作家、くどうれいんさん=講談社提供 拡大
盛岡市在住の作家、くどうれいんさん=講談社提供

 東日本大震災で、津波が到達した沿岸地域で甚大な被害が出た岩手県。内陸にある盛岡市出身で、現在も盛岡で暮らす歌人で作家のくどうれいんさん(27)は2021年、震災当時に高校生だった女性を主人公にした小説「氷柱の声」を出版した。被災者とはいえない立場で「震災のことを話す資格はない」と思っていたという、くどうさん。それでも震災を主題にした小説を書き上げた理由を聞いた。

「がんばろう」「絆」に違和感

 <東日本大震災を主題にした小説「氷柱の声」。物語は、主人公の伊智花が高校2年生の時、盛岡市内で大きな揺れを経験した2011年から始まる。美術部員だった彼女は、被災地に「がんばろう」というメッセージを込めた絵を送る取り組みや、コンクールの審査過程で「希望」や「絆」を求められることに違和感を覚え、葛藤を抱える。物語では彼女がその後の10年間に岩手、福島、宮城で震災を経験した人たちと出会い、震災を見つめていく姿を描く>

 地震が起きた時、私は盛岡市内の高校1年生で、被災県の在住だけど被災者とはいえない、そんな立場でした。他県の人から「頑張って」「つらかったでしょう」と言われたけれど、ライフラインが止まったくらいで、自分は何も失っていない。(津波のあった)沿岸の方の話を聞くと自分が申し訳なく思えてしまう。いつか、このやり場のない気持ち、もどかしさを書きたいと考えていました。

 6年ほど前から、3月には日記を付けるようになりました。断片的に震災当時のことを覚えていても、時系列だったりその時の感情だったり、うまく思い出せなくなっていることに気付いたからです。日記を付けることで、あの頃の気持ちの流れ、体験したことを書きたいという気持ちが自分の中にあることは認識していました。ただ、自発的ではなく、誰かに背中を押してもらえなければ書けないと思っていたところに、出版社の方たちから声をかけてもらい、書く決心がつきました。

「……」を作品に

 これまで震災に関する作品に触れることに勇気や覚悟がいり、手を伸ばすことができませんでした。被災者ではない人が震災の話をすることに、厳しい目を向けている自分もいました。

盛岡市在住の作家、くどうれいんさん=講談社提供 拡大
盛岡市在住の作家、くどうれいんさん=講談社提供

 「言うほどではないんだけど……」「たいした被災はしていないけど……」。前置きをしないと、なかなか震災の話ができなかった。この「……」の部分を作品にしたいと思いました。

 ずっと「自分は震災の時のことを話す資格はない」と考えていた。それでも書き上げてみて「話したいことはたくさんあった」と気付きました。「私なんかが」という前置きをせずに話してみたかったんだなと。

 執筆にあたり、岩手、宮城、福島の7人に取材をしました。以前から接点があり、震災に関する言葉が印象に残っていた人に声をかけ、改めて言葉の意味や経験を聞き直すような作業になりました。なるべくその時の会話のテンションや言葉の温度を再現できるように、相手の感情を脚色しないように心掛けました。意識しているつもりでも「答えを用意して話を聞こうとしている自分」に気付かされ、難しい作業でした。

 作品中に「聞いてほしかったんですよ、ほんとは、あの日のこと」「おれはずっと何かを言いたくてたまらないような気がする」「なにも失っていないのにどうしてこんなにも落ち込むのか」といった言葉があります。取材時に実際に聞いた言葉、その事実をありのまま書きたかったのです。

 この作品を書いて、「震災もの」という「くくり」はないんじゃないかと感じるようにもなりました。その時どんな立場で、どこにいて、どういう経験をした人であっても、みんな何らかの形で震災を経験した。今の私たちの生活はすべて「震災」から続いているものではないかと考えています。

 読んだ人から「自分も同じような思いがあったけれど、葛藤を言葉にできなかった。作品の中に言いたかったことがあった」と言われ、書いて良かったと思いました。

「忘れない」と言えない人たちがいる

 「氷柱の声」を書き切ることができれば、自分が震災によってどのくらい傷付いたのかや震災に対する気持ちがはっきりするんじゃないかと思っていました。でも変わらないことの方が大きかった。「忘れない」という声に押されて、「忘れられない」「忘れたい」と思っている人が発言しにくくならなければいいなと思います。まだ話せないという人が大勢いて、「忘れない」とは言えない気持ちを抱え続けている人がいる。この作品をきっかけに自分のことを話し始めることがあれば幸せなことです。そういう声を聞ける人でありたい。

 この作品を書いたことで、震災のことを考え続け、他人や自分に対して一方的に「物語」を求めることの問題性に自覚的でありたいと思っています。

【聞き手・構成、日向米華】

くどう・れいん

 1994年生まれ。高校3年生の時に全国高校文芸コンクールの短歌、小説、詩の3部門で優秀賞を受賞。大学在学中にエッセー集「わたしを空腹にしないほうがいい」を自費出版。その後は会社員をしながら、エッセー集「うたうおばけ」や短歌集「水中で口笛」など分野をまたいで執筆活動を展開し、中編小説「氷柱の声」は第165回芥川賞の候補作となった。

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Wednesday, March 9, 2022

語られなかった被災者の声、洋服のタグに 塩釜出身の秋田美大助教|秋田魁新報電子版 - 秋田魁新報電子版

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 洋服の裏に付く「タグ」で作られた真っ白な防災頭巾とリュック。タグをよく見ると、一枚一枚に東日本大震災の被災者の思いが記されている。制作したのは秋田公立美術大ビジュアルアーツ専攻助教の阿部由布子(ゆうこ)さん(43)。「時間が経過したからこそ打ち明けられた声に、関心を寄せてほしい」と話す。

生まれたばかりの子どもや年老いた親を屋根に引っ張り上げて家族は何とか助かった(40代男性)
よく知った地元の景色が津波にのまれていく映像をワンセグで見ていたら、動悸(どうき)と震えが止まらなくなった(30代女性)

 つづられた思いはどれも生々しい。

阿部さんの作品「震災にまつわる想い」
一枚一枚のタグに被災者の思いや体験が記されている


 阿部さんは、同大卒業生の女性作家と2人で「社会に対する女性の怒り」や「性差別への怒り」をタグにしたワンピースなどを「タグシリーズ」として発表。本来は、洋服の裏に縫い付けられるタグを表に出すことで、語られなかった内面の声を浮かび上がらせるとの狙いがある。

 宮城県塩釜市出身。時間がたち、被災地以外で震災に関する報道が減る中、「このまま記憶が風化していくのではないかという危機感があった」と話す。新作を模索する中、思い出したのが2011年の暮れに地元で暮らす友人らと開いた飲み会での会話。酔いが回り、ぽつりぽつりとそれぞれが体験を語りだした。「数カ月たって、やっと祖父母が見つかった」「家が跡形もなくなった」。心の底に閉じ込めていた声を聞いた気がした。

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被災者の連作画公開 江東で 東京大空襲77年 - 読売新聞オンライン

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 太平洋戦争末期の1945年3月、米軍の無差別爆撃で約10万人が犠牲になったとされる東京大空襲から10日で77年。江東区の「東京大空襲・戦災資料センター」では、家族とともに空襲の中を逃げ惑い、九死に一生を得た男性の手による連作画が公開されている。猛火に倒れた人々の姿を克明に描いたもので、センターは「悲惨な戦争の実態を次世代に伝えたい」としている。(大原圭二)

 58点に及ぶ連作画を手がけたのは、2020年10月に88歳で亡くなった新潟市の坂井 輝松てるまつ さん。空襲当時は13歳で、疎開していた母親らを除く家族5人で城東区大島町(現在の江東区大島)に暮らしていた。

 3月10日未明、B29爆撃機が投下した 焼夷しょうい 弾で街は真っ赤に燃え上がった。坂井さんが残した手記によると、空襲が始まり、「少し様子を見てから行く」と語る父親と兄を自宅に残して姉2人とともに避難した。目にしたのが、逃げ込んだ川でそのまま亡くなっていった人々や、焼け焦げて折り重なるように倒れていた多くの犠牲者の姿だった。坂井さん自身は父親や兄と無事に再会し、列車で父親の実家がある新潟に逃れることができたという。

 坂井さんは戦後50年の節目に合わせ、自身の壮絶な体験と残酷な空襲の様子を連作画「東京大空襲 硝煙の大島町」で描いた。

 「川の中の船まで燃えだした。橋の上を火が走る。そこにいた人達がバラバラと燃えながら落ちていく」「むかい側の火は一気にごうごうと うな りをあげてこちらへ。だんだん息が苦しくなってくる。もう駄目だ」。猛火の中を人々が逃げ惑う様を多彩な色遣いで描いた絵には、坂井さんによる説明書きも添えられている。

 「友人、知りあいが目の前で焼き殺されていくのが私の脳裏に強く焼きつく。死んでいった人たちのためにも記録を残しておこうと考えた」と手記に書いた坂井さんは、「あの時のことはとても割り切れるものではない。あの恐ろしい出来事が二度とあってはならない」と訴えていた。

 坂井さんは生前、連作画の複製や原画18点をセンターに寄贈しており、長く収蔵庫で保管されていた絵を見つけた学芸員の 比江島大和ひえしまひろと さん(39)は「本人に話を聞きながら、あの夜を追体験しているような感覚になった」と振り返る。

 空襲を実際に経験した人が少なくなる中で、比江島さんは「データとしての被害ではなく、生身の体験を通じて空襲を知ってもらいたい」と考え、一部を公開した。来館者からは「圧倒的な迫力や生々しさに衝撃を受け、空襲の実態を知ることができた」といった感想が寄せられたという。

 遺品を整理していた坂井さんの長女・高橋美和子さん(57)からは21年、新たに22点の原画も預かった。一部は画集「少年が見た東京大空襲」として今年2月に出版もされ、高橋さんは「父は絵を『自分の分身』だと言っていた。見てもらえる形にできて 安堵あんど している」と話す。比江島さんも「坂井さんの体験と思いを通じて、平和の芽を育てたい」と語り、今後、連作画にスポットを当てた企画展を開こうと考えている。

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ダウン症の書道家・隅野さん 東日本大震災被災者への温かい言葉、20点披露 - 47NEWS

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 ダウン症の書道家隅野由子(ゆうこ)さん(36)=神戸市西区=による作品展が9日、神戸西神オリエンタルホテル(同区糀台5)で始まった。東日本大震災の被災者へ向けた温かいメッセージや、元気が出る言葉など ...

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Monday, March 7, 2022

東方神起ユンホ、韓国の大規模山火事被災者へ5000万ウォン寄付「少しでも役立ってほしい」|スポーツソウル日本版 - スポーツソウル日本版

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日本での1stミニアルバムがヒット中の東方神起ユンホが5000万ウォン(約500万円)を寄付した。

【注目】新宿駅にユンホが!?変わらぬ人気ぶり

ユンホは3月7日、「愛の実」社会福祉共同募金会に慶尚北道・蔚珍(ウルチン)から江原道・三陟(サムチョク)で発生した山火事の被災地救援のために5000万ウォン(約500万円)を寄付したと明らかにした。

ユンホは「一日でも早く火災が鎮まり、被害地域の住民の方々に少しでも役に立っていただければと思い寄付した」と直接メッセージを伝えた。

ユンホの寄付金は、慶尚北道・蔚珍(ウルチン)から江原道・三陟(サムチョク)で起きた大規模の山火事によって生活基盤を失い、行き場のなくなった被害者のための生活必需品や生計のために使われることになる。

ユンホは今回の寄付で累計寄付金が1億ウォン(約1000万円)を超え、愛の実高額寄付者の集まり「Honor Society」に加入。ユンホは2019年4月、江原(カンウォン)山火事被害支援のために3000万ウォン(約300万円)、2020年2月に新型コロナ特別募金に3000万ウォン(約300万円)を「愛の実」に寄付している。

(写真=SMエンターテイメント)

今回の山火事の被害は現在も広がっており、韓国中央災難安全対策本部によれば、3月7日午前6時現在、1万6755ヘクタールの山林被害が推定されるという。これはサッカーコート(0.714ha)が2万3466枚の広さだ。

◇ユンホ プロフィール

1986年2月6日生まれ。本名チョン・ユンホ。誠実でまじめ、ストイックな姿勢から“熱血リーダー”、“情熱マンスール”、“アイドルの教科書”などと親しまれている。ファンだけでなく他のアイドルからも好感度が高い。同じく東方神起のチャンミン曰く、「僕が水で、(ユンホは)火のような性格。正反対だからお互いが補い合っている」

【写真】ユンホ、SJイェソンとの変わらぬ友情

【写真】ユンホとSHINee、仲睦まじい様子ににっこり

ユンホ、コロナ蔓延中に無許可飲食店を訪問「静かに会話ができるところ…」

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3.11被災者支援 思いは今も - 47NEWS

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 東日本大震災の発生から間もなく11年となるのを前に、宇部市の市民団体「福島の子どもたちとつながる宇部の会」は6日、福島県で被災した家族とテレビ会議システム「Zoom(ズーム)」で交流した。ウクライナ ...

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「どこ出身?」「地震大丈夫だった?」3・11で親を失った私は、なんて答えればいいの? - ハフポスト日本版

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「私には苦手な言葉があるんです。

それは、学校や職場、取引先で新しい人と少し距離が縮まった時に必ずされる『どこ出身なの?』という質問。

最終的に『福島県です』と答えると、だいたいは『地震、大丈夫だった?』と聞かれます。

津波に父親を飲まれた私は、なんと答えれば良いのでしょうか。

この11年、何度もそれに苦しんできました。

被災者が抱える苦しさや葛藤は、多くの報道で見られる『家族を失って悲しい』といった、わかりやすいものだけではないと思うんです」

東日本大震災から、11日で11年が経つ。

あの日から、父親が行方不明だという東京都の会社員・亜沙美さん(29)=仮名=に話を聞いた。

◆ 父親が津波に…。今なお行方不明

津波の被害が残ったままの沿岸部で行方不明者を捜索する消防団員(2013年、福島県浪江町)
津波の被害が残ったままの沿岸部で行方不明者を捜索する消防団員(2013年、福島県浪江町)

時事通信社

亜沙美さんは1992年、福島県内に生まれた。小学生の時に母を病気で亡くしたこと、医療従事者として働く両親に憧れたことから、中学生の頃には医療関係の仕事につくと決めていた。

仕事で忙しい中、1人で育ててくれた父親には強い感謝があり、迷惑をかけたくなくて、勉強に加え得意のバスケットボールやピアノも頑張ってきた。

2011年3月、高校を卒業し志望大学にも合格した。亜沙美さんは、春からの大学生活に思いを膨らませ、ワクワクした気分で春休みを過ごしていた。

3月11日。その日は卒業旅行として東京を訪れ、いとこと遊んでいた。

午後3時前、観光していると大きな揺れがあった。街の中の大きな液晶を見ると、地元で大きな津波があったというショッキングな映像が目に入ってきた。すぐさま父親に電話をかけたが、つながらなかった。

「お父さん…お父さん…」頭の中には、それしかなかった。

電車は止まっており、放心状態のまま5時間かけて、歩いていとこの家に帰った。後日、父が津波に飲まれたという目撃情報と、さらに行方不明であることを告げられた。

正直、当時のことはあまり覚えておらず、記憶がすっぽりと抜けている期間もある。ただ、泣いている自分を親戚やいとこが抱きしめてくれたことだけは、鮮明に覚えている。叔母の家から大学に通うことになり、亜沙美さんは「支えてくれる人がいたという点では、恵まれていたと思います」と話す。

◆「どこ出身なの?」が、トラウマを呼び起こす

東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線の富岡駅(2013年、福島県富岡町)
東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線の富岡駅(2013年、福島県富岡町)

時事通信社

しばらくは、1人でいる時は泣き腫らす日々が続いたが、大学や親戚の前ではできる限り「普通」でいるよう心掛けた。

大学では早い段階で、新しい友人にも父のことを話した。変に触ふれられて、傷つきたくなかったからだ。交友関係を広げたいとも思えなかった。

亜沙美さんは当時のことを「狭い人間関係の中で、周囲に『壁』を作ることで、自分を保っていたんだと思います」と振り返る。

だが大学2年になり、踏み込まれる機会が来てしまった。「親戚の負担を減らさなきゃ」との思いで始めた、カフェでのバイトの飲み会だ。

新人として挨拶をすると「どこ出身なの?」と問われ、「福島です」と答えた。

「地震、大丈夫だった?」

そう聞かれた瞬間、いろんな記憶がフラッシュバックし、よくわからないまま気持ち悪くなり、そのまま帰宅した。

これまで脳の片隅に追いやっていた記憶が、ダムが決壊したかの如く、押し寄せてきた。

後に、医者からトラウマやストレスによって引き起こされる記憶喪失「解離性健忘」があると診断された。自分を防衛するために、大きなトラウマとなった記憶の多くを失くしているという。

その日から、初めての人と話すのが怖いと思うようになった。自分のトラウマに、いつどんな形で触れられてしまうか、わからないからだ。

「出身はどこ?」という質問はごく普通の雑談で、相手に悪気がないとわかるからこそ、誰も責められないしただただ辛かった。

◆人それぞれ「普通」は違う。踏み込まないことも大切

東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線の富岡駅(2013年、福島県富岡町)
東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線の富岡駅(2013年、福島県富岡町)

時事通信社

その苦しみは、今も続く。

念願だった医療関係の仕事に就き、今年で5年目となる。

「どこ出身なの?」

その質問は社会人になっても、入社式の日から始まり、部署が変わるたび、取引先と挨拶するたび、当たり前のように聞かれ続けてきた。

良くも悪くも段々と慣れてきて、「東北です」と濁す”余裕”は出てきた。

それでも、「東北のどこ?」と続けて聞かれることも多い。そして最後には、「地震、大丈夫だった?」のトリプルコンボだ。

その度に「なんて答えれば良いんだろう…」と自問自答するが、答えは出ない。

「大丈夫じゃなかったです。父が津波に飲み込まれて、今も行方不明です、って言って大丈夫なんですか?」と心の中で叫びながら噛み締め、疲弊し続けている。

亜沙美さんは「こんな重い話、初対面でできるわけないですよ。それに、私も大切な人にだけ話したい。

出身地を聞くのがおかしいと思っているわけではありません。

ただ想像力を働かせて、濁されたら、せめて深入りしないでほしいなと思います。人それぞれ『普通』は違っていて、どこで傷つくかも人によって違うからです」と話す。

◆「わかりにくい苦しみ」も伝えてほしい

東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線富岡駅前の商店街(2013年、福島県富岡町)
東日本大震災の津波による東京電力福島第1原発事故から2年経過したJR常磐線富岡駅前の商店街(2013年、福島県富岡町)

時事通信社

亜沙美さんは、東日本大震災の被災者として取材を受けるのは初めてという。

「あの日から、もうすぐ11年。これまで報道を見てきて、言葉が正しいかは分からないのですが、今ではなく過去のこと、『家族を失ってつらい』といった、『わかりやすい苦しみ』ばかりが報じられているように感じてきました。

ですが、私のように『少しわかりにくい苦しみ』を、今、抱えている人もたくさんいると感じ、取材を受けようと思いました。

昔に何があったかだけでなく、被災者が今、どんな思いをしているのか知ってほしい。そうすることで、例えば踏み込みすぎないとか、お互いが生きやすくなるような気遣いが生まれると思っています。

この11年で、多様性の時代が進んできました。災害報道も、もっと多様化することを願っています

〈取材・執筆=佐藤雄( @takeruc10 )〉

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Wednesday, March 2, 2022

南箕輪からも示す連帯 チェルノブイリ被災者支援のNPO副理事長「できる限りのことを」 - 47NEWS

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 旧ソ連ウクライナ・チェルノブイリ原発事故の被災者らの支援を続けるNPO法人チェルノブイリ救援・中部(名古屋市)の副理事長、原富男さん(68)=上伊那郡南箕輪村=は、ロシア軍の侵攻を受けているウクライ ...

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